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今年の四旬節①

加藤 豊 神父

 

今年は(去年より)早く四旬節がやってきます。

 

ちっと変な言い方ですね。それをいうなら、「今年の復活祭は去年よりも早い日にちに祝われるので、この結果そこから逆算されて定められた『灰の水曜日』も去年よりも早い日にちとなりました」かな?なんだか長いですね(笑)。

 

わたしは何故か「四旬節」というものに惹かれます。時々、こう思うのです。「人生とは悪い冗談だ」と。

 

大いなる命に生かされる命の尊さを思えばわたしのこの想いこそ、まさに「悪い冗談」に該当することになるでしょう。それはわたしにも解りますし、その意味で思い切り誤解を招く発言です。しかし、一方で、これまた案外多くの人がこの心境に陥ることがあるのも確かです。「冗談にもほどがある。人生とは悪い冗談だ」と。

 

人生の目的は幸せになることではないのか、と、皆が皆ふと思うはずです。ところが、あるロシア人映画監督はキッパリと、「人生の目的は幸せではありません」といいきっていました。その映画監督というのは、マニアの皆さんにはもうお心当たりの通りです。今は亡き、アンドレイ・タルコフスキーその人です。

 

もちろん、ここで言われている「幸せ」についての概念には注意が必要です。いうまでもなく「幸せになりたくない」などという人は一人もいないでしょうから、額面通りに受け取ることは難しい。せっかくこの世に生まれてきた以上、人は皆そう思うのが普通ではないでしょうか。

 

では、タルコフスキーがいう人生の目的とは何かというと、これも今となってはもう解りません。彼の講演会の記録や遺稿を見ただけでは、それは全くわかりません。「人生の目的は幸せではありません。もっと大切なことがあるのです」と、だけ、記されているのです。

 

いつの頃からか、わたしは主のご受難という出来事の中には人間にとって何か大事なことが秘められているのではないか、と思うようになりました。もちろん自分から不幸を望むなどという自虐的な態度に積極的な意味があるなどとは思っていませんし、できれば皆が快適に過ごせることが第一であると素朴に思います。

 

ただ、この世界は、人間存在が普遍的に望ましいと感じている状況とは何故か反対に進んでしまうことが多い。何故なのか、と、そう自問するとき、いつも主のご受難の描写を思い浮かべてしまうのです。

 

ご受難のお姿は普通にどこをどうみてもまことに不幸なものです。また、ときには、伝統的理解に準じてカトリック信者はこう思う。「これほどにわたしたちの罪は深いのか」と。これまた極端から極端で文字通り自虐に向かって果てがない。しかし明らかに「自虐」は「幸い」でも「救い」でもありません。

 

これらについてはヨハネパ・ウロ二世の回勅「サルヴィフィチドローリス」(日本語副代「苦しみのキリスト教的意味」)は、見事に「主のご受難」と「現代世界に実在する生身の人間であるわたしたち一人一人」との神秘的な繋がりを説いています。

 

ときに人は自らの苦労話を自慢げに語ることがあり、「お前にこの苦労は解らんだろう」という変わった優越感に浸ることがありますが、実際には「苦しみの真の価値」を知る人たちは、容易く苦労話はしません。価値あるものを乱用したりはしないのです。

 

タルコフスキーがいう人生の目的が、「苦しみのキリスト教的意味」(ないしはその価値)について触れているとは断定できませんし、そもそも「悩み苦しみ」に意味や価値なんてあるのか、と思えてしまうのが合理的現代人の捉え方でしょう。

 

でも、おかしいですよね。だったら何故、人はわざわざ涙を流すほどの悲劇の上演を観て感動するのでしょうか。しかもそれをまた観ようとする。何故、不幸な主人公への並々ならぬ感情移入に没頭するのでしょうか。そんなことをして何になるのか、と、合理的には思えてしまうはずなのに。

 

今年の四旬節、ここでは、このテーマを巡ってお話していきたいと思っています。そういう記事じたい「非合理的」ですよね。少なくとも得をするわけではないわけですよね(笑)。