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ソラリス

加藤 豊 神父

 

 映画が好きな人にとっては、「ああ、あれね」とすぐにわかると思うのですが、「惑星ソラリス」というタイトルの作品があります。これまた「宇宙もの」ではあっても「SFアドベンチャーもの」からは程遠い内容です。いかにも「神父が好きそうなストーリーだね」と言われかねないですが、宗教的な問いかけに満ちたものとも言えるでしょう。タルコフスキー版とソダーバーグ版がありますが「あらすじ」はほぼ同じで、原作者の意図を上手く伝えているように思います。

 

 こんにち「クローン」や「AIシステム」が話題に上がることも各業界には増えました。車も自動運転の技術で各社がしのぎを削っていることでしょう。もちろんこのコラムは映画評論やライナーノートではないので、直接に「ソラリス」の描写には触れませんが、ようは人間の倫理と科学研究との間に生じる人間的葛藤は、ある一定のコントロール出来る範囲が定められて然るべきですし、かといって科学研究が制限を与えられてしまうことも大きな損失ではありますよね。わたしにとって、この種のテーマの象徴的なイメージが「ソラリス」です。

 

 限界なき自然科学の絶対性という観念が「神への冒涜だ」などと言うつもりはありません。新型コロナウィルスが「生物兵器」として意図的に開発され、実施されたなどとは流石に思いませんが、それも想像の範囲でなら辻褄を合わせることが出来てしまいます。仮にもし「そうだ」といたずらに仮定した場合、これはいわゆる「神への(また人類への)冒涜」という言い方が出来るかもしれませんが、だとしても科学研究自体が悪ということにはなりませんよね。

 

 わたしからすれば、やれ「地動説だ天動説だ」というモチーフで未だに飽きもせず小説を書くダン・ブラウン氏などは神父のみならず、宗教関係者たちからは歯牙にもかけられていません(話としては面白いですけどね)。そもそもメンデルやパスカルの存在は彼の世界では無視されています。

 

 それよりも教会が本当に気がかりなのは、人の情操的な一面や感受性と、それが無視されて導入される最新技術と、その両方の取るべきバランスに人類は悩み続けていることなのです。そのような思考の舞台においては、いわゆる「神への冒涜」は、そのまま「生命への冒涜」に結びつくからです。しかも科学者たちの世界にも学閥やら上昇志向の虚栄心やら名誉欲やらと、およそ科学的ではない物事に必死になっている人たちもいて、その人たち自体が科学的ではないのに、彼らもやはり科学者です。

 

 また、宗教と科学との結合を考察する人たちもいますが、大概それは陥りやすい罠に嵌ります。即ち主知主義的な信仰表現です。「どちらが、どう」という発想は、やっぱり一捻りしたダン・ブラウンですよね。別のものであれ、同じものであれ、何であれここで重要なのはバランスです。更に、そのバランスを取るのは、結局のところ人間です。だから「人間とは何か」という問いがどっちみち湧いてくるわけですね。

 

 最後に「人間とは自ら凝るところのもの」といったフランス人がいますが、(わたしの勉強不足なら申しわけないところですが)あまりにも単純です。なんだか、沢山の書物を読んだ結果、一回転も二回転もして、詰まるところ、常識や、明快な真理に舞い戻ってきたかのように見えてしまいますよね。人間も生物である限り、因果法則によって自由とはいえないにも関わらず、「自由の刑だとさ」と、いった印象ですね。もちろん、小さな子供でもわかることが、普遍的な「真理」ではあるのでしょう。とはいえ多大な研究費用の成果がこれって....。

 

 今わたしたちは未曾有の困難の中にいます。こうしたときに、いつも問われるのが「人間とは何か?」です。普段は娯楽映画のほうが興行収入は圧倒的ですが、人生のふとした隙間にはしっとりとした「ソラリス」が注目されていい、それが今かな、と思っています。