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もう一度「終末論」を学び直すとき

加藤 豊 神父

 

 今回、沢山の人が亡くなりました。また、日本では死者数が少ないとはいえ、一人一人の人生を思えば、これは数の問題ではないし、これに加えて、九州地方の豪雨、また、間の短いうちに起きた関東地方の地震もありました。

 

 人によっては、これらをして「ときのしるし」と受け取ることがあり、その度ごとに、わたしは「そうかな」と感じます。

 

 一際巨大な宇宙にさえも寿命があるのだから、それを思えばわたしたちの地球もやがては終わるでしょう。一つの惑星に誕生と死があることは皆が知るところです。

 

 では、なぜこの「終末」とか、「時のしるし」とか、その種の言葉が独特の意味合いを醸し出すのでしょうか。それはきっと、「裁き」や「救い」に結びつく信仰上の用語だからでしょう。

 

 人間のエゴイズムというのは空恐ろしいほどのものです。また、そういう利己心そのものが直ちに悪であるとはいえないと思います。過度な不安は、過度な恐れから生じ、その恐れの源は、滅ぼされたくない、という素朴な救済願望でしょうから、それ自体は人間の原初的な要求です。しかし、ここで「自分だけは(他人のことは知らないが)滅びたくはない」という気持ちに至ったならば、その利己心はたちまち他者への批判となって表出します。しかも現実の中で苦しむ人は、現実のほうが「悪」なのだと、社会批判にまで至り、そこに「終末思想」が加わるのです。「悔い改めなければ滅びる」というわけです。

 

 ある教会に、毎日のように告解に来る青年がいました。世の終わりが今来ても自分だけは救われたい、という、彼からすれば切実な悩みです。これはこれで、本当に気の毒なことなのです。しかし、一歩間違えればそれは「自己正当化」の願望になってしまう。常に清くありたいと思うことは尊いでしょう。しかし、動機が問題です。

 

 迫り来る恐怖と自己正当化、そこに悪循環が巣食ってしまうのです。

 

 わたしたちは、こんにちあまり語られることがなくなった感がある「終末」という信仰上の問題に、もう一度正しい理解を持つべきではないでしょうか。主のみ旨はいつも「一緒に喜んでください」という呼びかけです。

 

 この「終末思想」はとりわけ日本では仏教の「末法思想」と結びついてしまい、なにやらネガティブなイメージしかないようなものになっています。「終末」とエゴイズムとは容易にくっ付いてしまうのです。

 

 沢山の人が困難な境遇に合っている現在、そこに真に共感しようと思うなら終末感漂うことに敏感になるよりはその人たちのために祈ることを求めるでしょう。

 

 もちろん、みずからも不安になりつつも、自分に閉じこもって孤独の中で神の裁きを逃れることのみに意識を集中したりはしませんね。むしろ「終末」を感じる前に事態の改善という希望のうちに來べき平安を希求するでしょう。

 

 ともあれ、いろいろいってみても、いまはすべての講座が休講中です。今の所は、こうしたプリントを皆さんに配布して(あるいはHPで)ご覧いただくしかないのです。