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「福音化」されたのはわたしだけでした!?

加藤 豊 神父

 

 文才のないわたしがこうやって文章を書いていますから、後から様々なことに気づかされることがとても多くて、それはわたし自身にとって勉強になることです。例えば、団体名や人名には気を使いますし、人を励ますはずのものが、かえって人を傷つけるとすれば、いくら勉強になるからといっても、それは悲しいことです。

 

 いつかは諸宗教で扱うことになるかもしれないこととして、実は、親鸞聖人に興味があるというカトリック信者はかなり多いです。これは第二ヴァティカン公会議の後に、「禅」に傾倒した神父様方がいた一方で、(それよりちょっと後ですが)「親鸞」の研究に走った司教様や神父様もいたからです。これらの現象の逆の事例は(あるのかもしれませんが)、わたしから見ると、あまり見受けられません。唯一、パウロ修道会だったかな、そこでみずから望まれて研修生活をされていたご住職がおられたことを、何かの本で読んだくらいです。

 

 ところで、親鸞聖人について学ぶ方々や、心酔しておられる方々のうち、それならということで、浄土真宗に入門した、というかたは(わたしの知人たちでは)、案外少ないのです。つまり、「だからという理由で後を追う人は案外少ない」ということなのですが、ひょっとしたら、それは親鸞聖人への理解の片鱗なのかもしれない、と思いことがあります。

 

 というのは、そもそも親鸞聖人が、釈尊(お釈迦様が)阿弥陀如来の救いを説いたのはわたしのためだったという究極的な実存を語るその背景として、「わたしが衆生を救うのではない」という体験があったと思いますし、「自然の教団は広大無辺である」とも仰っていますから、親鸞聖人のこうした体験を通してその後の研究者にも、それは如実に表れている気がします。

 

 司祭たちの研修会では、ご住職をお招きして講演していただくこともありますが、それは時々のことであって、通常は毎年もっと差し迫った内容がテーマとなり、それに基づいて講師の神父様や司教様をお迎えしています。ある研修会で「福音化」の話が出ました。こんにち「宣教」の概念は布教もさることながら、この「福音化」に重きが置かれます。

 

 質疑応答のとき、手を上げて発言されたL師は、先ず講師にお礼を述べた後、「わたしは今や歳を取り、日本で人生のほとんどを過ごし(師はF国のご出身です)、宣教師として働いてきましたが、今振り返ると、福音化されたのはわたしだけでした」とおっしゃいました。

 

 これはある人たちには意表をつく驚きであり、また、ある人たちには「我が意を得たり」といった共感を呼び、また、ある人たちには皮肉であって、また、ある人たちには師の「そのお人柄」やF国っぽいジョークのセンスに感嘆する一言だったことでしょう。

 

 そしてわたしがそこで思い浮かべたのは、実は親鸞聖人のお姿だったわけです。できればこのような話題は諸宗教では扱いたくなく、なぜなら、先も申しましたように、カトリック側の研究者も多くて、それらの著書のほうがずっと為になり、同時に真宗は「仮面のキリスト教」などとも(真宗の側からは迷惑ですよね)いわれていたり、もはや新しい比較研究の題材とはいえないくらいになっていると思うからです。

 

 わたしも人間なので、「どうすればもっと宣教が進むのか」とか、その他諸々、色々ともがいたりするわけですが、わたしではなく、最終的に全ては主がなさることなのですよね。