加藤 豊 神父
「クリスマスとは何か」なんてことは、知っている人にとっては当たり前のように答えてくれます。「キリストの誕生日だろ?」ってね。しかも、こんにちでは知識人たちはこういいます。「でも、あの地方(イエスが生まれたところは「ベツレヘム」と伝えられています)は12月って相当寒いんだろ?馬小屋なんかじゃ凍死しちまうだろ」なんてことまで語れるくらいです。
「キリストの誕生を記念して毎年『降誕祭』(クリスマス)を祝っている教会ではありますが」カトリック信者と一口に言っても色々な人たちがいて、「キリスト者にとって最も重要な祭典はクリスマス以上に復活祭だ」と認識している人は(調べたことはありませんが)予想されている以上に少ないかもしれません。
だってコロナ禍でなければ、「降誕祭(クリスマス)のミサ」に来る人の方が「復活祭を含む聖週間」の典礼に来る人よりも多いし、特に普段は教会に来られない方々が、「この日くらいは」と自分の教会を訪れる典礼上の祭日をじっくりと見ていると、普段あまり見かけない人は「聖週間」よりも明らかに「降誕祭」のときのほうが多数ですからね。それはそれで教化の不足も関わっているのだから、「当局(?)」(などというものは本来教会にはないのですが)の責任、つまり司祭たちの説明不足にも由来するでしょうし、ここでは、それはまた別の話となります。
ここで、お話ししたいのは、そもそも「降誕祭」の理解じたいが「2000年以上前の出来事の記念というだけではなく」、やがて来たる神の国の完全な到来、すなわち「第二の御降誕の待望」でもあることを、皆あまり(カトリック信者自身が)意識していないところがあるように思われます。
確かにイエスがこの地上にお生れになったのは昔の話です。そのイエスは「神の国の人格化」ですから、「神の国はすでにきている」ともいえます。だから苦しい現実のなかにあっても、わたしたちは至る所で、その「しるし」を見いだすことが出来ますし、これはキリスト者でなくても、時折「奇跡とも呼べそうな救い」を経験していると思います。けれども(わたしがペシミストだからでしょうか)概ね、人類は救いのみ業を実感していない人が沢山おられると思いますし、それどころか「本当に神はいるのか」と叫びたくなるような局面を目の当たりにする人だってやはり沢山おられると思います。
わたしたちは、いわばキリスト教的に表現するならば、「すでに来ている救い主」の存在を知りつつ、「まだ完全には・・・」という現状の間で、その緊張感を背負って生きている、ということなのです。
こうした思想は仏教にもあり、仏陀はすでに娑婆世界に現れたが、やがて未来には弥勒菩薩様がやって来て(その時には「弥勒如来」なわけですが)、衆生を救うとされており(詳しいことは「諸宗教」のほうでお話しする機会があればその折に)、イスラム教は本来「ムハンマドは最後にして最大の預言者」という教えではありますが、なかには「でも、世の終わりには、もう一度、預言者が現れるのでは」と考えている人もいます(ただこれは先述の理由からイスラムでは異端になってしまうわけですが、これまた「諸宗教のほう」で機会を設けたく思います。いつになることやら、なのですが)。
その他、終末思想が強いユダヤ教は勿論のこと、ヒンドゥー教、ゾロアスター教、北欧神話などにも見られる考え方として、「やがては救いの到来があるのだから、今は苦しいけれども待っていよう」という希望は説かれていると思います。
第二の御降誕を待ち望み、今もまだコロナ禍にあって、益々、現実の厳しさや、即効性のある救済(それは一時しのぎなので返って苦しいですが)を得られず、じっと救いを待っている人たちが世界規模でひしめいている昨今です。この機にわたしたちカトリック信者は特に「第二の御降誕」(これを神学用語では「再臨」と言いますが)への希望を携えて、今年の「降誕祭」を迎えるべきではないでしょうか?