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多様性について考える②

個性を阻む「一律」と、一致を妨げる「独走」

加藤 豊 神父

 

 共同体において一致を心がけるなら、たとえ「独創的」であっても、決して「独走的」であってはならないでしょう。

 

 イエスはご自分を必要とする人たちを前にしてこう訪ねます「何をして欲しいのか?」(マタイ20:32)。そうです。「相手のあること」なのです。しかも相手の悩みは個々に違うのです。しかし、どうしたことでしょう。誰に相談することもなく、助言も聞かずに「こうしたほうが、良いに決まっている」という思い込みをもとにした行動がこんにち、あちらこちらで目立ちます。それでは一種の「独善」ということになってしまい、イエスからは「偽善者」と見なされる、一方的な視点からの価値基準だと言えるでしょう。

 

 日本には「ありがた迷惑」という言い方がありますが、こうした表現は世界中至るところで見受けられるらしいので、どうやら「独善」は人類規模の病なのかもしれません。「やっといたよ!」「え、わたしが頼んだっけ?」という会話を聞くとき、どう考えても「やっといたよ」と言った人は善意からなのだろうことは、誰にだってわかります。

 

 教会という共同体は、善意の一人一人の集まりだといっても過言ではありません。それでも、そのなかでいろいろ「揉め事」と呼べそうな数々の事例があります。人によっては、それに疲れはてて教会から離れてしまうこともあるかも知れません。大げさですが、これは「宣教の障害」とさえ言えるのかもしれません。

 

 「支え合う」とか「助け合う」とかは、人間同士の相互理解と密接に関係するもので、容易いことではありません。そうは言っても、相手の気持が完全にわかるまで何もしてはいけない、などということになれば、きっと何も出来ないでしょう。だから少なくとも、一人一人の事情は、自分が理解している事情と「同じ」ものではないという認識と、「ひょっとしたら今わたしは一人で走ってはいますか」すなわち「独走」してはいないだろうかという「振り返り」が絶えず必要なのです。

 

 「他人の目にあるオガクズは見えるのに、自分の目の丸太には気づかない」のが人間で(マタイ37:3-5参照)誰にでもそういうところがあるものです。しかし、そのことを意識しているのといないのでは、雲泥の差があるでしょう。残念ながら、日本ではキリスト教徒になりたい人は多くないようですが、社会情勢は見通しが悪くなっており、キリストを必要とする人は恐らく多くなっているだろうという点で、「福音を宣べ伝える側」が、「福音を必要とする側」に向かって、どうやら「独走」してしまっており、ここに「大きなズレ」があるのではないでしょうか?

 また、こんにち、あらゆる場で多様性は否めない現実ですが、それでいて、画一的で「一律」な「マニュアル化」を合理的な解決だと考えてしまっているところがありますから、これまた、そこに「大きなズレ」があることは言わずもがなでしょう。それらの現状を前に「一律」の解決などあろうはずもなく「独走」して突っ走ったところで何も解決しないでしょう。

 

 ただ「それを意識しているのと、しないのとでは雲泥の差」があるでしょう。