さくらまち 183号(2017年3月19日)より


◆ 司祭の言葉

◇ 導かれて ◇

 

主任司祭

ヨセフ・ディン

召命のきっかけ

 

今年3月8日、司祭叙階25周年を迎えました。

 

司祭の道を考えるきっかけは、小教区で司牧実習する神学生が教会学校で子どものぼくと遊んでくれたからです。

 

教会の広い前庭でサッカーを楽しんだ後、侍者(祭壇奉仕)や祈り方を指導してくれたおかげで、神学生の道に魅力を感じ、小神学校に行きました。

 

まだ司祭をめざすというのではなく、「あの神学生」のようになりたいという素朴な気持ちでした。

 

難民

 

1975年、ヴェトナム戦争終結と同時に南ヴェトナムは社会主義国となり、教会の施設(学校や病院など)が閉鎖されたり国営化されたりしました。ぼくが行った小神学校も閉鎖されたので、家に帰らなければなりませんでした。

 

その後、司祭の道をもう一度チャレンジするために、1981年5月29日の真夜中、小さなボートで国を脱出しました。3日後、ちょうど水も食べ物もなくなったとき、日本行きの液化天然ガス(LNG)のタンカーに助けられて日本にやってきました。

 

粕谷甲一神父との出会い

 

2年間ほど徳島県の造船所で働いた後、日本定住のために品川国際救援センターに移りました。そこで日本語の「あいうえお」を習いはじめました。

 

また、そこで毎日曜日ミサをささげてくださる粕谷神父に出会いました。侍者とか聖歌伴奏などの手伝いをとおして、粕谷神父と話す機会ができました。

 

ちょうど3か月日本語コースを卒業した時、「東京教区の神学生になりたいか」と声かけてくださいました。数か月後、東京教区の白柳大司教と養成担当司祭との面接のために、東京教区の司教館に連れて行ってくれました。

 

白柳誠一大司教のはからい

 

面接の時は、まだ3か月くらいの日本語力だったので、大司教と養成担当司祭の質問を全部聞き取れないし、自分の考えも表現しきれませんでした。でも、たぶん気持ちが伝わったので受け入れられたのだと思います。

 

その頃、東京教区には外国人の司祭はたくさんいましたが、外国人神学生を受け入れたのは初めてであり、とまどっていたようです。

 

また、東京神学院でも初の外国人神学生の受け入れでした。まだ日本語で授業を受けられないぼくのために日本語学校を探したり、神学院の生活に早く適応できるように、いろいろ配慮したりしていただきました。

 

今ふりかえってみれば、感謝でいっぱいという一言につきると思います。

 

もし粕谷神父に出会わなかったら、もし白柳大司教でなかったなら、たぶんぼくは東京教区の神学生、東京教区の司祭になることができなかったかもしれません。

 

お2人とも留学して外国での生活を経験していたので、1人はぼくに声をかけてくれ、もう1人はぼくを受け入れてくれたのだと思います。

 

神さまはお2人をとおして、ぼくを助けたり導いたりしてくださったので、いま小金井教会で皆さんのために働き、今年皆さんとともに25周年のお恵みを迎えることができました。

 

本当に感謝しております。