さくらまち 184号(2017年7月30日)より


◆ 司祭の言葉

◇ 信じることとは ◇

 

主任司祭

ヨセフ・ディン

神の呼びかけ

 

『「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。

 

あなとを祝福する人をわたしは祝福し、あなとを呪うものをわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。』(創世記12章1-4節)

(「アブラム」は、主と契約の前の名。その後、アブラハムと呼ぶようになった。創世記17章5節)

 

この聖書箇所は、「アブラムの召命」というタイトルのとおり、子どもの頃「神さまの呼びかけですから、アブラムが従うのは当然」だと思っていました。しかし、今「日本社会の中で」読みなおしたら、「当然」ではなく、「不思議なこと」だと思うようになってきました。

 

なぜかというと、呼びかけられた時にアブラムは「財産が多すぎてから」甥のロトと「一緒に住むことができなかった」ほど裕福であったからです(創世記13章6節)。つまり、「一言の約束」でアブラハムが裕福で安定した生活を捨てて、不安定な生活に踏み切った理由はどこにあるのか?いいかえれば、アブラハムが手に入れたいとても大切なもののために、故郷を捨てて旅に出たということです。

 

アブラハムが手に入れたいもの

 

創世記15章は、アブラハムの深い悩み、苦しみについて、つぎのように語ってくださいます。

 

「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません...ご覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家のしもべが跡を継ぐことになっています。」(15章2-3節)

 

アブラハムは、「物」(財産)をたくさんもっていましたが、そのすべての物を受け継ぐ「者」が与えられませんでした。アブラハムにとって、子どもがいないということは、どんなに財産を持っていても意味がないのです。ですから、「あなたを大いなる国民にする」という神の約束がアブラハムにとっては一番魅力的な約束であり、命をかけても手に入れたい。それで、アブラハムは裕福で安定した生活の故郷を捨てることができた、というわけです。

 

イエスの復活に「賭ける」

 

今年の復活祭に受洗した方々の中のある方、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11章25節)といういえすのことばに惹かれました。「もう年ですけど、このまま死んでいく、腐っていくのは耐えられない。いちかばちか残りの人生をイエスさまにかけます」と言って受洗することを決めました。

 

たしかに、この方はアブラハムと同じように、残りの人生を神さまの御手にゆだねて信仰生活の第一歩に踏み切ったのです。

 

信じることとは、なにかを期待して命をかけても手に入れたい、ということです。命をかけるほど必要がないなら、信仰はいらないかもしれません。

 

裕福になってきたわたしたち日本社会に生きている人々に、命をかけても手に入れたい福音の道を、どうすれば証しすることができるでしょう。

 

ほんとうに信仰を第一にする生活でなければ、福音宣教はただ「騒がしいどら、やかましいシンバル」(一コリント13章1節参照)なのではないでしょうかと思います。