さくらまち 186号(2018年2月4日)より


◆ 司祭の言葉

◇ 「苦しみの中に…」 ◇

 

カトリック八王子教会主任司祭

兼カトリック小金井教会小教区管理者

辻 茂

主の降誕を心よりお喜び申し上げます。

 

11月より、小金井教会小教区管理者として担当する、辻茂神父です。7年前も半年ほど同じように担当しましたが、今回もよろしくお願いします。小金井と八王子の往復生活ですが、助任司祭のルイス神父が常駐しておりますし、協力司祭の方々と共に小金井教会のために奉仕できればと思います。

 

苦しみの意味

 

さて、世の中には、様々な苦しみがあります。病気、災害、事故、戦争による苦しみ、社会問題から生じてくる苦しみ、死を恐れる苦しみなど、数えあげればきりがありません。人間が生きている限り、このように苦しみを避けることができないのが現実です。

 

それでは、人間が受ける一切の苦しみは、わたしたちにとって無益なもの、無意味なものであるかと言えば、必ずしもそうではありません。

 

身体のどこかが悪ければ、痛み、苦しみを感じ、それによって適切な治療を受けることができます。また「若い時の苦労は、買ってでもせよ」と言われるように、どの分野で働くにしても、それなりの苦労なしに実力は身に付きません。このような苦労は、実りをもたらしてくれます。

 

いつか報われる時が来るという希望があれば、少々辛くても、力と勇気が湧いてくるものです。わたしたちがもっとも苦しみを強く感じ、それに押しつぶされそうになるのは、その苦しみの意味が分からない時ではないでしょうか。

 

「なぜ、わたしはこのように苦しまなければならないのか」。この問いこそ、苦しむものの心からの叫びと言えます。

 

人生の深い価値

 

苦しみは、しばしば人間を表面的な浅はかな生き方から引き出し、人生の深い価値に目覚めさせる機会となります。

 

ルカ15章に出てくる放蕩息子は、困窮に打ちのめされた時、はじめて父の愛に気づくことができました。お金のある間は、ちやほやと彼の周りには多くの人が集まってきたことでしょう。しかし、一文無しになった彼を助けてくれる人は誰もいませんでした。全てを失ったその時、いつも一緒にいて気付かなかった父の優しさが、彼の胸の中に懐かしくよみがえったのです。

 

「彼は我に返って言った。『お父さん。私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください』」と。

 

大切なものを求める機会

 

人間は愚かなもので、痛い目に合わないと、なかなか目覚めないところがあります。貧困や病気、それ自体けっして良いものとは言えません。悩みや苦しみを、わたしたちはできる限り背負いたくないと思っています。

 

しかし、自分が引き受けなければならない十字架を通して、今までの生き方を見つめ直し、本当にあてになるもの、大切なものを求める良い機会になればと思います。

 

降誕祭を迎え、この一年を振り返りながら、わたしたちが、苦しみの中にも、神からのしるしを読みとることができますように。