さくらまち 189号(2019年5月12日)


◆ 司祭の言葉

◇ 大国を治むるは小魚(しょうせん)を煮るが如し ◇

 

カトリック小金井教会主任司祭

加藤 豊

最近、なぜだか高校時代のことを思い出すようになりました。中高生のみなさんと会う機会が多いからでしょうか。理由は自分でもわかりません。

 

わたしの高校の漢文の先生はとてもいい人で、わたしは成績は悪かったが、その先生の授業が好きでした。その頃からですから、もう長いこと、やたらとこの一句が「浮かんでは消え」しています。「老子」の一節です。

 

細々した儒教の教えでは、大きな国は治まらない。たてまえや正論だけで、国を統一することなんて無理だ。いや、一人一人の考え方を「統一」しようなんてことが、そもそもナンセンスなのだ、という道家の思想を表しています。

 

だからといって、賄賂あり、密約だらけの裏取引ありの不正を認めていいはずはありません。老子もそんなことを言っているわけではないはずです。

 

そもそも「大国を治むるは小魚 (しょうせん) を煮るが如し」の意味はこうです。つまり小さな魚は骨がもろいので、煮る時のコツとしてあまりいじくりまわさないほうが、上手に煮上がる。大きな国を治めるのもこれと同じ。小賢しいことを、いろいろ考えないほうがいいといっているわけです。

 

ご存知のように、今ヴァティカンも世の波風をじかに受けており、さすがに小賢しい浅知恵のような対処は、かえって不誠実として解決を遅らせてしまいかねないと察しています。またマスコミは、本気で被害者のことを考えているというより、記事を売りたい動機が透けて見え、混乱が混乱をよんでいます。

 

あまり高邁なことは言えませんが、こうなってしまうと大切なことはわたしたちの姿勢のほうです。つまるところ、物事に対するわたしたちの誠実さや謙虚さがどうなのか、にかかっていると思います。

 

さて、みなさんすでにご存じのように、わたしは今年の復活祭から小金井教会の主任司祭となりました。タイムリーな就任のあいさつの記事は、教会のホームページにまだ載っていると思いますので、そちらをご覧いただくことにしまして、ここでは加藤神父がなにを考えているのかの一つをお話しできればと思い、「老子」を引用させていただきました。

 

つまり現時点でのわたしの心境は、「大国を治むるは小魚(しょうせん)を煮るが如し」です。

 

歴史の浅い日本国内の(関東の)教会では、2000人規模の小教区であれば大教会です。かかわるには緊張を余儀なくされ、そこでの課題は山積みとなってしまうのが必至な規模です。小金井教会の規模だって1400人。けっして小規模とはいえず、もともと司祭二人体制くらいの必要性があったでしょう。事実そういう時代もあったと思います。

 

さらに、修道院、病院あり、その他の施設ありと、小教区域には多種多様な共同体があり、また敷地内からちょっと離れたところには、学校や隣の小教区(これまた大規模な教会)があるわけです。

 

ハッキリいって上手くやっていける自信なんてありません。評価はみなさんがくだしてください(あるいは6年後くらいにそうしてください)。それが、わたしのためでもあるのです(なげやりに、こんなことを言っているわけではないことだけはご理解ください)。この巻頭言ですが、別に漢文シリーズのような連載にする気はまったくありません。ただ、上述の今の心境をみずからふりかえるに、今回このタイトルになったことに続き、次回もこの心境でという一句のタイトルとしたく思います。

 

「大事を成すにあたっては、まず何よりも人を以ってその基となす」。三国志に出てくる、劉備玄徳の言葉です。