さくらまち 190号(2019年9月1日)


◆ 司祭の言葉

◇ 昭和の夏の思い出 ◇

カトリック小金井教会主任司祭

加藤 豊

これはいわば詩のようなものです。そうお受け取りくだされば幸いです。すぐに思い出すのは「虫籠」です、次に「かき氷」、そして「眠れぬ夜」です。

 

わたしは東京生まれです。でも、昭和の時代には大都会の片隅で昆虫採集ができました。よく蜂に刺されました。結局、合計で40回以上刺されています。だから今でも蜂が怖いです。おそらく蜜蜂などの種類蜂だったせいか、幸い病院に運ばれるようなことにはならなりませんでした。もし、足長蜂やススメバチなどに刺されていたらと思うとゾッとします。

 

さて、普段はたい焼きを焼いているお店も、夏の間は「かき氷」を売っていました。これは令和の今でも時々見かけますよね。ただ昭和の頃の「かき氷」の特徴は、合成着色料がお構いなく多量に使われていました。

 

そして「眠れぬ夜」、ご近所のみながみな、冷房完備のお家ではなかった時代、次第に普及されてきたものの、よくまあ、日々、過ごせていたものだと感じます。今思えば、自動車、バス、電車もほとんどそうでした(改善は始まっていましたが)。それでも熱中症患者は今ほどではなかったのではないでしょうか?

 

今と比べて昭和の全盛期、高度成長期と呼ばれるあの頃は工業化が目覚しかったにも関わらず、緑地面積は保たれていたせいか、暑さの質がこんにちとはまるで違っていたのです。だからわたしの不眠症も多分、暑さのせではなかったでしょうし、しかも今だにそうなのは、季節と関係なく、いつからか、もうこの身に染み付いてしまった癖のようなものなのだと考えています。

 

わたし自身は幼少期、当時ちょっと話題になった言葉を借りれば「鍵っ子」でしたから、母の仕事は遅く、夜になると物音で目が覚めてしまいます。母は飲み物を飲もうとグラスに氷を入れ、それがまた「カランカラン」と涼しげな音を立てます。わたしはそれに反応して喉の渇きを覚えますが、そこで起きてしまうと、「まだ起きてんの?早く寝なさい」と叱られるに決まっていますから、とにかく眠れぬままに静かにしていたものです。

 

その後も眠れない夜は何度も繰り返し、特に夏場は頻繁でしたが、これは概ね気持ちの問題が大きいと自覚しています。ある時、ふと気がつくと空が少し明るくなっていました。まだ小学校4年生か5年生くらいだったでしょうか。このときからわたしはあえて眠らずにいることで、夜はどうやって朝になるのか、その明るさが増すことの変化は実感できるものなのか、ということを確かめたくて仕方なくなり、それをどうしても見てみたくなってしまったのです。

 

深夜0時、昭和の夜中は離れた駅からの電車の音まで聞こえるほど静かな夜でした。そして「夜鳴きそば」、チャルメラですね。これでお腹が空いてきます。しばらく星を見て過ごし、退屈します。車の急ブレーキの音が何処からか聞こえます。人の叫び声も聞こえてきます。喧嘩でしょうか、酔った人の心の叫びでしょうか。そうやって眠れぬ夜はそれなりに過ぎて行きました。

 

ところで望みが果たされたのかといえば、これは毎回「失敗」に終わりました。夜明けが来る前になると眠ってしまうからです。「あんなに眠れなかったのに」と嘆いてみても後の祭り、眠い目を擦って学校へ行きました。

 

今ははもうわたしの生家はありません。木造二階建ての当時の我が家とご近所の夏、そこで過ごした帰らぬ日々、思い出すたびに暑さまで思い出してしまうほど強烈な昭和の夏の記憶です。

 

あのときの「虫籠」は当然もう持っていませんし、「かき氷」なんて何年も食べていませんが、相変わらず「眠れぬ夜」は今も度々訪れます。いかがでしょうか、これらがわたしの昭和の夏の記憶のなかの三つのシンボルです。決して爽やかでは無いが、わたしにとっては懐かしいものです。

 

皆さんはこの令和となった夏、何を思い出しておられるでしょうか。この期に思い出して見てください。自分にとって価値ある思い出こそ価値あるものです。