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T.S.エリオットの『四つの四重奏』を再び "聴く"

G.T.

 

 四旬節が過ぎ、復活節の到来とともに、なぜかT.S.エリオット(英国の詩人、1948年ノーベル文学賞受賞、1965年76歳没)の代表作の一つである『四つの四重奏 The Four Quartets』が頭をよぎり、再びそのページをめくりました。

 

 『四つの四重奏』はT.S.エリオットが51歳の1943年に刊行され、7年間に亘って書かれた「バーント・ノートン Burnt Norton」(1936年発表)、「イースト・コーカー East Coker」(1940年)、「ドライ・サルビッジズ The Dry Salvages」(1941年)、「リトル・ギディング Little Gidding」(1942年)という、作者ゆかりの地名をそれぞれ題名とした4編の相互に関連した長編詩で構成されています。エリオットの最高傑作とも評されるこの作品は単なる長編詩集ではなく、それぞれの詩は、「時」の本質、贖い、人生の意義と神様の秘儀に関しての熟考と探求をしています。

 

 キリスト教の象徴性と神秘主義への言及が濃厚なこの作品は、エリオット自身の聖公会への改宗(「(私の)宗教はアングロ・カトリック」と自分の立場を宣言していた)の道標でもあると言われるものの、そのテーマは普遍的に共鳴し、人間の体験を形作る意味の探求に触れています。

 

エリオットとの出会い

 

 エリオットの『四つの四重奏』に初めて出会ったのは、通っていたカトリック系中学校の図書館の静かな片隅でした。15歳の私にとって、エリオットの抽象的なテーマや複雑な表現は難しく理解し辛いものでしたが、その同時に彼の書かれた詩は神秘的な質に何とも言えない惹きつけられるものを感じました。そして文学の先生に指導をお願いしたところ、先生は私の突然の熱意に、驚きながら喜んでくださったことを今でも覚えています。

 

 その後の長年にわたり、更に2回ほども読み返したことがありますが、最後に読んでから十数年も経った今、復活節の始まりの光の中で再びエリオットの「四重奏」を"聴き"返すと、一種の霊的巡礼の旅に出るような気分になり、作品のより深い層を鑑賞するための新たなレンズを与えてくれました。「現代の宗教文学・瞑想詩の一秀作」 とも評されるこの作品を評論する資格もその意図も私にはありませんが、エリオットの四重奏にある、心に響き、考えさせられる数多いフレーズの中から、ほんの幾つかを引いて、簡単に分かち合いたいと思います。

 

過去、現在、未来の絡み合い

 

 エリオットは最初の詩「バーント・ノートン Burnt Norton」でこう書き始めました。

 

 「Time present and time past 現在の時も過去の時も

  Are both perhaps present in time future、おそらく未来の時の中に存在し、

  And time future contained in time past. また未来の時は過去の時に含まれる。」

 

 この冒頭の一節は、内省と黙想の本質を捉えているのではないかと思います。「時」の絡み合い、折り重なり合う性質と、その中で私たちの存在を思いこさせます。四旬節の後、復活節の始まりにこれらの言葉を熟考していると、過去の罪の悔い改めと、復活節が象徴するキリストの御復活による刷新、そして過去、現在、未来が「今」という瞬間に収束すること、また、私たちの霊的な旅の連続体について、奥深く語ってくれています。何より、私たちの生活の中に神様の恵みが永遠に存在し続けることも思い起こさせてくれます。

 

初めと終わりについての探求

 

 第2編の「イースト・コーカー East Coker」では、エリオットは「初めと終わり」、「生と死」のテーマについて熟考し、詩の最初と最後のそれぞれの一節にこう書いています。

 

 「In my beginning is my end. … 我が初めこそ我が終わり。…

  ・・・・・

  In my end is my beginning. 我が終わりこそ我が初め。」

 

 これらの言葉は、悔い改めと回心の過程を通じて、神様、すなわち私たちの原点に立ち戻る、という四旬節のテーマに共鳴し、私たち自身の死すべき運命と、主イエス・キリストの御復活を通じて永遠の命への希望とその新たな始まりを、思い巡らさせてくれます。 

 

 また、聖アウグスチヌスがその名著である『告白』の第1巻の冒頭に書いた「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」をも思い出させてくれます。

 

試練や艱難の中で神様の御臨在を見出すこと

 

「ドライ・サルビッジズ The Dry Salvages」は、人間の様々な苦しみとその中での意味の探求というテーマに共鳴しています。

 

 「The river is within us, the sea is all about us; … 川は私たちの中にあり、海は私たちの周り全体を囲む。…

    ・・・・・

  The sea has many voices,  海には多くの声があり、

  Many gods and many voices. 多くの神々と多くの声がある。」

 

 私にとって「川」はヨルダン川と主イエスの洗礼、そして主と同じように洗礼を授かった私たちに対して、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節)と主が言われた御言葉を思い出させてくれます。エリオットは「海」を「時」の比喩として用い、私たちがこの「時」の中で生き、様々な遭遇や苦しみや体験など、人生の予測不可能性と不確実性に直面していますが、そんな中でも主が常に私たちと共におられることを示唆してくれます。

 

 「We had the experience but missed the meaning, 私たちは経験をしたが、その意味を取り逃してしまった、

  And approach to the meaning restores the experience  その意味に近寄れば、その経験を

  In a different form, beyond any meaning 私たちが幸福に与えるどんな意味をも超えた形で

  We can assign to happiness.… 取り戻せるのに。…」

 

 エリオットのこれら言葉は、信仰が穏やかな庭園を散歩することよりも、嵐の中を旅するように感じられた時を思い出させてくれます。それは、人生の試練や艱難の中で神様の御臨在を見出すための闘いを反映しており、私たちの最も激動の時代においてさえ、神様の恵みの永続する御臨在についての熟考を促してくれます。

 

 ちなみに、この作品は 1941 年、ロンドン大空襲の最中に書かれ、空襲は現地で講義をしていたエリオットの身を脅かす出来事でした。

 

元の出発点に到着し、その場所を初めて知る

 

 最後に、エリオットの「四重奏」の第4編である 「リトル・ギディング Little Gidding」 は、霊的真理、救い、神様との究極の交わりを追求する上での浄化、過去と現在の統一というテーマを語っています。エリオットは詩の最後の部にはこのように語ります。

 

 「We shall not cease from exploration 我々は探求を止めない

  And the end of all of our exploring    そしてすべての探求の終わりは

  Will be to arrive where we started 元の出発点に到着し

  And know the place for the first time.…   その場所を初めて知る。…」

 

 復活祭の約束を踏まえて読むと、この箇所は私たちの信仰の旅について多くのことを語っていると思います。それは、私たちの信仰の核心に戻る四旬節の旅、信仰に対する新たな理解、そして復活節を祝う感謝の時を映し出しています。また、信仰と理解のレンズを通して、見慣れたものを新たに "観る" という、私たちの変容と原点回帰の継続的な霊的旅でもあります。

 

・・・・・

 

 エリオットの『四つの四重奏』を再び "聴く" ことは、旧友と再会することに似ている気がします。そこでは、新たな気づきや洞察があり、不変の真理を再認識することができます。豊かなテーマと絶妙な詩的表現を持つエリオットのこの傑作は、信仰の旅路と、私たちの人生における神様の恵みの永遠の存在を奥深く思い巡らすヒントを与えてくれます。

 

(注:詩の引用は英語原文のまま、日本語訳は筆者による)