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収穫は多いが、働き手が少ない。

10月29日(日)年間第30主日。

 

7年間主任司祭を務めたヨセフ・ディン神父の小金井教会での最後の主日のミサでした。ディン神父は11月1日をもって習志野教会の主任司祭に赴任し、小金井教会の後任主任司祭がいない間、辻茂神父(八王子教会主任司祭)が小教区管理者として兼任することになりました。

 

小金井教会は再び、主任司祭のいない小教区になりました(前回は2010年6月~10月、同辻神父も管理者として兼任)。東京教区司祭の高齢化などで司祭が不足し、小金井教会に主任司祭を派遣することが難しくなりました。主任司祭のいない教会は日本以外に、世界中にもたくさんあるという現実は知っていますが、自分が所属している教会も同じ状況とは人生初めてです。

 

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(ルカ10・2)

 

“早く後任の主任司祭が任命されますように”、“司祭が足りないので、司祭の召し出しが増えますように”と、最初はそればかり神様に祈っていましたが、主イエスの言われたこと(ルカ10・2)をじっくり考えれば、そればかりを祈るのは適切ではないと気がきました。

 

「働き手」とは誰のことを指しているのでしょうか。一般的に、司祭やシスターな聖職者たちのことだと思われがちです。しかし、働き手は洗礼を受けた全ての信徒のことだと言うならば、考え方が変わってきます。

 

教会の使命における信徒の不可欠な役割について、第2バチカンは教会憲章(第4章)に明確に述べました。「信徒によらなければ教会が地の塩となり得ない場所と環境において、教会を存在させ活動的なものとすることが特に信徒に与えられた使命である。」(教会憲章第4章33条

 

使徒パウロは教会のことを多くの部分を持つ人体に例えました。またその体の健全な働きにすべての部分が必要だと言われました。

 

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」( Ⅰコリント12・12-13)

 

聖職者と修道者ばかりではなく、わたしたち信徒も主のブドウ畑の働き手であることに気づいていないから、“働き手が少ない”のではと思います。

 

一小教区として確かに主任司祭が必要で重要なことですが、主任司祭がいない状況の中でも、わたしたち信徒は主のブドウ畑の働き手として、一人ひとりが果たすべき役割があります。わたしたちは皆、収穫の主のために一緒に働くことができますように祈りましょう。