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上善は水のごとし

加藤 豊

お酒の話ではありません。「老子」の一節です。しかもわたしは決して漢文マニアでもありません。ただ若い頃によく「老子」と「自省録」(マルクス・アウレリウス」を比較した本を読みふけり、ひたすら幸せになりたい!という自己実現に夢中になっていた時期がありました。

 

「幸せ」がどのようなものかという特定のイメージがないままに、ただ幸せになりたいなどと思っていたわけですから、今思えば呆れてしまいます。

 

「老子」に言わせれば、それこそが幸せなことではないか、となるのかもしれませんが、ともあれ、彼の書では「水」が理想的なものとして語られます。「水」はあらゆるものを潤し、自らは低いところへ流れて行きます。行く手に何か障害物があれば無理はしません。そこをよけて流れるか、再び流れるまでは留まります。つまり他と争わない。途中で穴が開いていればその穴を埋めてから前に進みます。人の生き方もそういう方がいいと老子は考えました。即ち「上善は水の如し、水善く万物を利して争わず、衆人のにくむところに下る」です。

 

しかし、人間が幸せに生きていこうとするとき、大概はこれと逆のことをします。おそらく「老子」はそれで本当に幸せになれると思うならそうしなさいというでしょう。つまりここには「べき論」がないのです。

 

一種の逆説的視点や諦念的安心は、今、教会の中に見いだすことができるでしょうか?競い合う人と人、拡張することに喜びを見出すような感性、それが活性化と呼ばれてしまう価値観、普段の仕事に疲れ、教会に来ても仕事をし、また疲れ、その労苦の報いが他者の笑顔となるなら報われもするが、どうも他者をも巻き込んだ疲労感。いったい、わたしたちは何を求め、誰と争い、どこへ向かおうとしているのか。ふとそんなことを思うとき、若い時に読んだ「老子」を思い出します。

 

人はどこから来てどこへ行くのか、この究極的な声を多くの人から問われる中で、カトリック教会が突きつけられている問題は、そもそも目の前のことだけなのでしょうか?