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均衡の神に

加藤 豊 神父

ニーチェはいっています。「キリスト教はアポロ的でもなくディオニソス的でもない」。アポロとディオニソスという対立項は、彼自身『悲劇の誕生』において全面的に用いた概念です。

 

「菊と刀」で日本を論じたR・ベネディクトもまた「冷静で理知的、自制に優れ、建設的な性格」をアポロ的とし、それに対し、「衝動的で感情の抑制が効かず、破壊的な欲求を秘めた性格」をディオニソス的と定義づけています(知る人ぞ知るRush「神々の戦い」の解説評論はアポロとディオニソスを逆に記してありますが多分、単純なミスプリントだと思います)。

 

さて「お前はニーチェを解っていない」という声が聞こえてきそうですが、あえていいます。「キリスト教はアポロ的でもありディオニソス的でもあるとわたしは思います」と。

 

そもそも旧約における神の属性と思しき民に対する不条理な牽引(旧約「ヨブ」記参照)は、およそ理性的な解読を拒むようなものであり、イエスの衝動的言動はあらゆる点で現代人の思考からは辻褄が合わず、福音記者たちはそれを(気にしたか気にしなかったかは不明ですが)そのままに伝えてしまっており、やはり理性的な解読をどこかで遠ざけているようなところがあって、この点はかなり「ディオニソス的な一面」です。

 

しかも、ニーチェはそれを確信していた節もあり、発狂寸前(あるいは発狂後かもしれませんが)倒錯した意識の中で「十字架に着けられた神ディオニソス」という訳のわからないことを書いていたりします。

 

実際、ギリシア神話におけるディオニソスの象徴は「葡萄」です。これはキリスト教における象徴的な植物です。「わたしはまことの葡萄の木(である)」(ヨハネ15:1)といわれています。

 

更に、オリンポスの神々には入らない新奇なる神ディオニソスは、その意味で「知られざる神」でもあります(使徒17:23参照)。そしてディオニソスは最後に悲惨な死をとげ、この神を祭る秘教集団は復活についての伝承を有します。

 

わたしたちはついつい忘れてしまいますが、実は「感謝の祭儀」は秘儀なのであり、わたしたちの主は秘められた計画によって、秘められた現実(神の国)を地上に実現するために秘密のルートで人類の歴史に介入された方、つまり秘密に満ちた方です。

 

以上を見ただけでは、「キリスト教はディオニソス的なもの」と捕らえられてしまうかもしれませんが、その一方でイベリア半島にキリスト教が根付いた頃には(それ以前からですが)イエス・キリストへの信仰は太陽崇拝と結びつくなかでその信仰を集めるようになります。「正義の太陽キリスト」というアポロ的な称号が広く使われるようになるのです。

 

ローマ帝国におけるミトラス教や、ゾロアスター教とその派生的な教えのマニ教は、ギリシア神話のアポロへの信仰とは随分と違った形態ですが、それでもアポロは太陽神なので「光」「火」「日」などの輝きは一括りにされ、「光を浴びて白日に晒された明快なもの」や「数学的思考の明晰さ」その他、理性による知的な判断はキリスト教的な徳に数えられていきます。これらはアポロ的な輝かしさと置き換えても何ら抵抗がありません。

 

かつて「理性とは神の一部(ヌース)である」と思われていました。12世紀頃といえばいいのか、中世という言い方が妥当なのか、その時代のネオプラトニズムに覆われた神秘のベールを打ち破るべく、自然理性による「神の存在証明」が著されるようになります。このような思索も「アポロ的」という範疇に入ってしまわないでしょうか。

 

まあ色々と「ああでもない」「こうでもない」あるいは「ああだ」「こうだ」といいましたが、それはわたしだけでなく、わたしの何十倍も「ああだ」「こうだ」といっている人たちが、その手の本を書いたりするなかで、これをいってしまうと身も蓋ないのですが、要は結局どちらでもよく、わたし自身どちらかが正しいかそうでないかを話したかったのでもありません。

 

ただ「アポロ的」か「ディオニソス的」かという、こうした対立項から、わたしたちはみずからの信仰のバランスをとることができると思うのです。自分自身を振り返ってみたとき、信仰の偏りとでもいうべきものを自覚させられることがありますし、無自覚に偏っている人もかなりいるのです。

 

そこから共同体の偏りも見えてくることがあったり、しかもその性格や傾向性が影響力を持つ場合、それはもう個人の問題ではなくなってしまい、そのまま突っ走ってしまうと取り返しがつかないくらい大きな問題へと繋がってしまうことさえあります。

 

ディオニソス的な情操は時に秩序を破壊し、人を混乱に陥れます。情に流されて約束事が無視されることは危険です。だが反対にアポロ的な峻厳さや、例外を認めない徹底した糾弾も時と場合によるでしょう。生身の人間が暮らす世の中では、相互に決められた事柄でさえ情操面での限界があるので、厳格な態度が哀れみに欠ける印象を与えてしまったり、最終的には相手の人間性もろとも否定し兼ねないようなことにもなるでしょう(極論かもしれませんが)。

 

それゆえ、どちらにしてもニューチェ研究者の皆さんからの多大なご批判は免れないとは思いますが、先に申しましたことに加え、こう付け加えておきたいと思います。「キリスト教はアポロ的過ぎてもディオニソス的過ぎてもバランスが悪い」と。