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生活に必要なもの

加藤 豊 神父

子どもの頃は理髪店に行くことがとても嫌でした。思い起こせばいつも髪の毛はボサボサで、お世辞にも小綺麗な風体とはいえませんでした。友達に話すと不思議がられたものです。「床屋さん行けばさっぱりするのに」とか、「切ってもらえば後はスッキリするのに」とか、皆が皆、整髪には肯定的な友人ばかりで、わたしの床屋さん嫌いは到底理解されませんでした。

 

更にまた、高校生にもなれば、わたしの母校は当時、頭髪検査がやけに厳しく、嫌でも何でも、とにかく整髪しておかないと生活指導の教諭たちから叱られて、それでもそのままにして登校する生徒がいると、教諭たちはバリカン片手に片っ端から丸坊主するくらいのことをしていたほどの厳しさです。今だったら多分パワハラ、社会問題になりますよね。ただまあ、やられる奴も確信犯で、反抗的で、パーマもキツくて、あまつさえ逃れてやろうという筋金入りでした。

 

理髪店を営む信徒の方には誤解していただきたくないのですが、わたしは職種や業種について何某かの評価をしているわけでは決してありません。ただ、行きたくない時にそこに行かされた。というそんな場所があったとすれば、なかなかいい思い出にはならないわけで、これはいわば個人的な苦い経験からの話です。床屋さんが悪いわけでも何でもないのです。それを踏まえてご了承くださり、どうか話を続けさせてください。

 

さて、上述しました整髪に関しまして、わたしはこれを主日のミサと大変よく似たものと感じています。

 

日曜日の休みの日、そのための時間があればカトリック信者は皆、教会に行き、一旦、ミサに出席すれば、まあ、だいたい1時間は動けません。それは時には何か拘束された感覚でもあるでしょう。司祭の話を聞き、献金をし、日頃の悩みをとりあえず脇に置いて意向を尊重し、終わってみればサッパリするものの、それまでは床屋さんで「上向いてください」「横向いてください」「はい、頭洗います」みたいに、ミサにおいても「お立ちください」「おかけください」と、言われるがままです。

 

もっとも好きか嫌いかに関係なく、理髪店(あるいは美容院やカットサロンを含めて)は、どうしても生活に必要なものであるように、キリスト信者にとってミサはどうしても必要です。

 

問題は、義務感ばかりが先行し(それだけでも尊いのかもしれませんが)心の底から必要を感じていられるかどうかで、きっとそう感じているカトリック信者の方は幸いですね。