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ひとつの単語で異なる意味内容

加藤 豊

 

キリスト教の愛というのは「アガペーといわれますよね」と、入門者の方から時折、尋ねられることがある。答えとしてはそうだが、よくいわれる他の二つも結局キリスト教における「愛」に含まれる。ただし、それらの用語は畢竟、言葉であって、重要なことは言うまでもなく言葉で示される内容のほうである。つまり、なんと呼ばれているか以前に、既にその内容はあった。それがなければ内容を示すために妥当な言葉は見つからない。

 

仏教において「愛」は「カーマ」即ち「愛欲」という内容を示す言葉である。だからいい意味で使われることはない。愛着は固執、愛情は情念、愛用は所有、「とらわれない心」を良きものとする仏陀の教えは、愛着せず、むしろそこから自由になるべく勧められ、情念を根拠に行動は実は不自由なものであることを解明する。「我」さえも実態がない、従って実際には人は何も所有できず、また一旦、所有した気になると、またもやそこに所有者の不自由が覆いかぶさる。

 

以上の点から、キリスト教徒が語る「愛」を仏教徒にいわせるならば、妥当な言葉として「愛」ではなく「慈悲」を当てはめるだろう。それにしてもこうした乗り越えがたい文化的相違のために、誤解が更なる誤解を生み出す。

 

例えば、カトリックの「典礼聖歌」171番の答唱句、「わたしたちは神の民、その牧場の群れ」を遊牧民族ではなかった日本の風土に合わせても無意味なことになろう。旧約的な伝統からの連続性を想えば、単純に「わたしたちは神の稲、その田んぼの米」にはできないわけだ。このあたり、いっそ旧約と新約を切り離してしまうべきだと極端な主張をする人もいる。

 

新共同約聖書の新しい翻訳が出来ている。訳者たちの熱意と葛藤は、わたしには想像を絶する。漠然とした物言いだが、世界は広い、文化的背景の違いは当然、諸宗教対話に直に影響する。出来上がった形を作り変えることは難しい。人と人とは直ぐには分かり合えない。

 

それでいて最近は、極あっさりと「違いを超えて」と多くの人が口々に叫び、結果が出る前から主張そのものの美しさによって賞賛される、といってしまってはあまりに意地悪な見方であろうか。そんなつもりは勿論ないが、わたしが思うには、超えられない隔たりは必ずあるが、それを前提に対話が進められるほうが後々いいのではないか、ということと、誤解がはびこる前に、言葉が指し示す意味内容に関しての慎重さが必要ではないか、ということ。

 

そしていま現在、対話が進んでいないのだとすれば、相変わらずわたしたちが軽率に誤解しており、既にどこかで高い壁を乗り越えているような錯覚に陥っているということではないだろうか。