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1日に20秒

加藤 豊

 

 「まことに死がなければ哲学することもないであろう」といったのはショーペンハウアーだったでしょうか。人の死をテーマに、哲学者は誰彼となく思索し、詩人は誰彼となく詠い、映画監督は誰彼となく撮り、その主人公の苦悩を俳優は演じます。これまた誰彼となく、そして時代を問わずです。

 

生まれた瞬間から人は死に向かって歩み始めます。しかも不思議なことに、生きるためにです。現代において多くの医療関係者や宗教者は多かれ少なかれ、何らかのかたちでこれと関わり、なかには、私たち以上に生と死を深く見つめ、それを専門の分野とし、死の瞬間を垣間見ている生業も沢山あります。

 

無論わたしはパストラルケアとかターミナルケアとかいわれる仕事の専門家ではありませんし、また、専門家と思しき人のこともあまりよく知りません。しかし、教会や司祭たちの間にはそういう人もいて、結構、有名な人もいますから、名前を挙げれば「あっ、聞いたことある」なんてことにもなるかもしれません。ただ、専門家もやはり人間なので、最後には死を迎えてしまうのです。

 

学生の頃、いわゆる「老人ホーム」に訪問して、入居者の方々に教話を語る奉仕に参加したことがありました。そこは女子修道会が母体であったとはいえ、入居者はカトリック信者だけではないですよ。むしろ非キリスト者の方が圧倒的に多かったのです。だから、教会の専門用語やそれらの背後にある価値観を前提に話をするのは、わたしにとってかなりの勉強となるものでした。

 

はじめのうち、わたしは来世の話題を避けていました。話を聞いてくださる方々のなかには随分、ご高齢の方もいて、一歩間違えがあれば、大変、失礼なことになってしまうのではないかと考えたからです。ところが、わたしが愚かでした。実際には皆が皆、興味津々です。

 

そりゃ冷静に振り返れば当たり前なのですよね。若い世代と、後期高齢者とどちらが死についてのリアリティーを感じているのかといえば、各人の程度の差こそあれ、言わずもがなですよね。そして、これこそ皆が意外に思える事例としてあげることができるのは死への洞察という精神的営みが、返って生を充実したものとしてくれるような一面があるということなのです(真正面からは理解しがたいことですが)。

 

1日に30秒、否、20秒だけでも自らの死について考えてみると、多分それだけで、自らの生に何がしかの安定感が加味されてくるのでは、と、そんなふうに思いました。最初のうち、それは倒錯した観念で占められてしまうかもしれません。なぜなら、死については誰もが事実認識を持っているにせよ、自らの死は他人はもとより、自分でもよく分からないですからね。