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猛暑に思う

加藤 豊

 

もう随分前のことですが、「アイコ十六歳」という小説があって、作者は堀田あけみさんという高校生でした。堀田さんは当時17歳、この作品で史上最年少の文藝賞受賞者となりました。その頃(1981)随分と話題になり、映画化もされていますね。物語の始まりからしてインパクトがありました。「夏は狂気だ」というのです。

 

昔前の時代、子供たちは夏休みを楽しみに夏の到来を待ち遠しく四季の中を過ごしていたことでしょう。しかし、いつの頃からか、都会を「嫌な暑さ」の猛暑が襲い掛かるようになり、一部のアウトドアー派の人たちを除いた多くの人にとって、まさに「夏は狂気」となりました(そもそもアウトドアーも避暑を求めてのことなのですが)。

 

それでのまだまだわたしが幼い頃は、「夏は狂気」であるよりは「情緒」でありました。少なくともそのような時代、今のような「嫌な暑さ」はそれほどでもなかったのです。ましてそれより昔は、一般家庭であれ、職場であれ、今程エアコンは普及しておらず、扇風機で涼をとっていたところがほとんどです。実家の近くにあった喫茶店やラーメン屋でさえ、そうでしたからね。

 

そんなわたしにとって、「夏が来れば思い出す」といえそうなもの、まず真っ先に思い出すのが小説中のアイコのセリフです、また時代はそれより前になりますが、今は亡き声優の納谷悟朗さんのナレーションが印象的な「キンチョウの夏、日本の夏」というテレビコマーシャルでしょうか。こうした思い出は人それぞれではありますが、ひとついえることは、いわば焼き付けられた記憶が、普段は潜在化していても、ある時一定の条件のもとに浮かび上がってくるものだろうということです。

 

どうやら今年も「夏は狂気」のような年です。熱中症や脱水症状に「情緒」なんてありません。自然の頑固な盲目性は手加減なしにわたしたちの前に立ちはだかり、種々の不都合を生じさせるという意味で、やはり自然環境の素晴らしさからその創造主に賛美を捧げるような季節としては春秋のほうがよさそうな感じです。

 

時代は変化し、今と昔とでは異なる設定で物事が決められています。従って、人類の生活スタイルが変われば当然、信仰生活もその影響を受けます。閉じこもって原理主義の真似事にしがみ付いても空しいだけであるばかりでなく、激しい浮世離れから友達をも無くすことになるでしょう。それもまた愚かなことであります。

 

かつては特定のイメージが却って弊害を生じたため、それらが取り払われ、その後そのままイメージが喪失している状態でも前に進まざるを得ないのが現代日本社会のキリスト者の現実でしょう。信仰の輪郭ははっきりせず、皆、みずから不自由な掟を求めて探し回ります。しかもそれを他人に押し付けるなんてことも起きてしまいます。

 

本当に必要なことは信仰における新たなイメージの形成であり、それについては自分自身がどう理解しているかという点にかかっており、教会を頼りにしてもなかなか納得がいかないかもしれません。

 

旦、絵や彫刻で可視化されてしまった来世もわたしたちの心に深く影を落としているのです。しかもなお洗練された教会人として成長していくためには、既存のイメージにとらわれてしまうことがないような注意深さを獲得することまで求められています。そうして結ばれる実は言葉を超えたものを言葉によって伝えようとする作業、すなわち「宣教」でしょうか。