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教会の共通善について④「希望は視界の向こう側」

加藤 豊 神父

 

以前、よくこんな語り口の話をよく聞きました。

 

「こうれからの教会は.....でなければなならない」。

 

信徒であれ、司祭であれ、教会の未来は共通の関心事なので、このような話題がお茶の席であれ、会議上であれ、挙がって来るのは当然といえば当然です。しかし、教会の内側(特に自分が経験した教会の)だけから「これからの教会」をいくら模索してみても突破口は見えません。

 

転じて「小教区制度は最早、規模が脆弱な日本の教会では限界だ」といった問題提起にもよく出くわしますが、制度をリニューアルすることに夢中になっても仕方ない。そしてよく「今こそ信徒の時代」というテーマが掲げられるようになりました。これが健全な意味で達成されるならそれにこしたことはないのですが、早くも様々な矛盾が出てきています。

 

順序が逆になりますが、ここでは最初にこのお話(信徒の時代に関して)をしたいと思います。

 

これについては信徒の方の受け取り方はいうまでもなく様々ですが、司祭の減少は周知の事実ですから、司祭の負担や過重責任を前に「我々信徒の側もよく考えなければ」という前向きな意見もあれば、「今になって都合のいい話だな」という忌憚のないないご意見もあります。ただ、現実的に信徒の方々の活躍を以前にも増して期待しなければならない状況になっているのは、事の良し悪しの問題ではないでしょう。

 

その意味で、そこから一歩進んだ考え方の一つとして浮かび上がるテーマ、司祭自身の生涯養成があると思います。簡単にいえば信徒中心の教会にあって、「これからは信徒が司祭を育てているという意識を持たねばならない」という発想であり、これは極めて重要なものです。

 

もとより、養成は一方的なものではなく、それぞれが置かれた状況の中で育てられていくのは当然のことです。これまであまりにも司祭中心でありすぎたといわれる日本のカトリック教会はいつかは次の時代を迎えることになるのは明らかですから、これらの視点は重要です。

 

しかし「これからは信徒が司祭を育てているという意識を持たねばならない」という発想の出所が、特定の司祭から特定の信徒たちに託された知恵だとしたら、これは一捻りした(しかも特定の)「司祭中心主義」と変わらないものではないでしょうか?これでは本来の趣旨から外れてしまうが、その人たちはこの自己矛盾をどう感じているのでしょうか?

 

特定の指導司祭の訓戒で「これからは信徒が司祭を育てているという意識を持たねばならない」と主張して若い新米司祭たちを圧迫していた人たちの事例を挙げることができます。その新米司祭は結果的には彼らの指導司祭(といって彼らが慕う神父さん)から一捻りした形で彼らが掲げる(指導司祭の訓戒)に圧迫されたことになります。無論、年齢に関係なく司牧者であるならば、それくらい受け止められなければいけないわけだし、しかも誰もフォローする人がいなかったのもまた別の意味で問題なのですが。

 

更に、「司祭が中心ではない教会」と「司祭が要らない教会」とでは違います。そこが小教区か否かとは無関係に教会(広い意味での教会)には司祭が必要です。つまりパウロ六世がいうように、キリストの肢体の一部(教会の呼称の一つ)として(司祭中心であろうとなかろうと)司祭の役割は教会に不可欠なのです。

 

そして最後に、冒頭で触れました「これからの教会」のことについてこれから述べます。わたしが思いますに、どうも現状を見ていると、皆が迂闊にみずからの教会体験だけを材料にこれを語る事例が多く、それでいて進歩的なことを軽率に論じるので怖いです。

 

例えば東京教区ですと過去のいい思い出を持ったある地域の活動は当時、画期的でしたが、それが基準で未来の青写真が(少なくともその地域では)話し合われることが多々ありました。

 

しかし、よく考えてみてください。どのような「今日の最先端」も明日には「昨日のこと」になるのだということを。だから最先端を自負する人たちと会話をしていると、わたしの頭には「1980年代の東京教区の様子」が浮かんでしまうのです(その時代には彼らは最先端だったかもしれません)。

 

この他にも、海外の方法を参考に用いることがありますが、その方法をそっくりそのまま持ってきても、日本の土壌や風土に照らしてどこまで有効なものなのかを考えなければ(この点はすでに多くの人が指摘していますが)、返って焼け石に水となるのは言わずもがなです。

 

以上のような課題については何もわたしが今更お話するような独自の意見ではなく、あちらこちらで既に話題になっているものです。

 

教会の共通善を求めて、最初に①では小教区における事例を、次に②と③では千葉の教会に焦点を当てての外国人信徒との歩みの事例を、そして、それらから少し離れて今回の日本の教会の未来に関して思うことと、(それは実際まだまだありますが)その周辺でわたしが耳にした様々な意見について取り留めもなく話してきました。

 

とりあえず、範囲が広がれば益々、取り留めがなくなりますし、事例を挙げれば切りがないので、この記事をもって「教会の共通善について」の最終編としたく思います。

 

さて、ここに付け加えたいことがあるとすれば、これまでわたしが耳にした全ての意見は例えわたしの個人的な思考にとって腑に落ちない意見であったとしても、やはり動機は未来への希望から生じたものであることは確かでしょうし(だから今後もいろいろな人とこうした話ができなければなりません)、希望が未だ視界に入らないにも関わらず、それを信じているその人たちの信仰であるといわざるを得ず、どのような会話中のどのような批判もそれじたい未来に向けられたの眼差しであって、共通善の模索の一環であったことだと申さねばなりません。

 

今さえ良ければいいという人も沢山おられる現状のなかでのことなのですから。