加藤 豊 神父
フランス革命のどさくさに紛れて頭角を現した軍事的天才と言えば、ナポレン・ボナパルトですね。今日でも評価は様々でしょう。
かつてベートーベンはナポレオンに期待したかと思いきや自由フランス(?)を治めたそのナポレオンが皇帝に即位したと知るとガッカリします。ちょっとパターンは異なりますが、同時代だとヘーゲルもまた期待した口でした。アルプスを越えるナポレオンが「世界精神」とやらに重なったとか何とか。
ところで、用兵に明け暮れるナポレオンには、部下が手柄を立てても与えてあげられる報酬は手元になく、仕方なしに「これを」と報酬代わりに与えたものが勲章でした。これがいわゆるレジオンドヌール勲章です。金一封も領地の分配も出来ず、差し出すものがなかったナポレオンから代わりに「これを」と勲章を賜った兵士は、それをむしろ喜びました。なぜなら当時のナポレオンはブランドだったからです。
人によってはブランドものの服を好んで着ることがありますが、そのブランドをシンボライズしたものがブランドロゴですね。本当にそのブランドかどうかは、そのロゴでわかります。と言っても、最近はロゴそのものが巧妙にマネられたバッタもん、というものも少なくないでしょう。
ただ、ブランドは移ろいやすいものです。よく「金は相場の変動がほとんどないから現金よりも確かな財産だ」ということを聞きますが、その逆にブランドはそのブランドに象徴される実態が地に落ちてしまえば、誰もそれをブランドだとは思わなくなります。
修道者たちは清貧を旨とします、実際、謙って質素な生き方をしているブラザー、シスターは沢山います。とは言え、修道服は容易にブランド化することもあり、今はオーダーメードで設えますし、あまり見窄らしいものだとなかなか現代日本社会では受け入れ難くなります。清潔と質素とは本来矛盾しませんが、凝り固まってわざと見窄らしくするのも「ちょっとなぁ」と思うわけです。
今日、教会もまたある意味でブランドなのです。だから「まがいもの」や「バッタもん」も出てきます。非正統教会です(この場合正統は「正当」では傲慢ですから「正統」表記しますが)。ただし、世の価値観に伴う何かを象徴的に教会内に求めてもブランドの主人は見えてきません。だから歴史の中でこのブランドは何度も自らを誤解し、他から誤解され、何度も自ら地に落ちて、他から反対方向にレッテルを貼られたブランドに変質してしまいました。
ところが何度も地に落ちてはまた浮上するので、今でもブランドは保たれているようです。私たちもまた、このブランドを誤解されないように、自ら誤解なきよう気をつけたい。実態が伴わないブランドほど滑稽なものはありません。
「その勲章ば誰からもらったのか?」
「ナポレオンからです。」
こうした何気ない会話が多くの人々の価値観を分けるでしょう。それはナポレオン・ボナパルトの今日的な賛否両論の評価が多岐に渡っていることに似ています。
「勲章をもらったお前は何と名誉な奴だ」と言われたり、「その勲章はお前の末代まで恥となるぞ」と言われたりして、そもそもブランドは移ろいやすいもの。手にしたところで、その実態の方が本当は問題で、ブランドの合理性というものは物事を記号的に見分けることが出来る便利さがあるからで、これほど便利なものはそうそうありませんよね。
しかし、利便性以外のところでブランドが用いられることも珍しくありません。優れたブランドは優れた実態に由来します。「この製品は確かなものだ」と安心できるのは、製造業者が「確かで安心」だからです。だから実際には実態を伴わない「ブランドだけ」では、本来は何も誇れず、「確かさ」や「信頼、安心」ないはずです。そう思うと、ブランドだけで誇れる人というのは、純粋というのか、軽率というのか。その両方なのか。
そしてこれが一番重要なことだと思うのですが、それは時としてブランド志向に秘められる心理的傾向とブランドそのものとの関係です。そもそも、なぜ誇りたいのか、誰に差を付けたいのか、そんな衝動が初めから皆無なら、それは既に名だたるブランドさえも超えており、安心立命に至る最短の近道と言えるものです。
「誰も見向きもしないが、この会社の製品の品質は確かだ」と知られて行きます。今や製品も人材も信仰も、それらをブランドから全面的に評価する見方をする人というのはさほどいないでしょう。「弘法も筆の誤り」があることは誰だって知っています。厄介なことに善くも悪くも「噂通り」ということもまたあるものだから困るのですが。ともあれ「無数の答え」がある中で掴み取った自分にとっての答えは貴重で自分にとって何よりも確かなものであります。
無論こうした発想もまた後々、誇りたい衝動や差を付けたい心情に利用されてしまうと、それによる不安の解消や、不確実性の回避、そして最終的にはブランドを超えたところでやっと掴めるはずの収穫とも言えそうなものが、また、新たにロゴを着けられ、新たなブランドと化してしまうかもしれません。
結局、同じことかもしれないのですが、その度、根気よく「これだ」と言えるものを求め続けるしかないと思うのです。脱ブランド化ですね。