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番外編(一神教?)

加藤 豊

 

「対話は人と人との間で行われるもの」とばかりに実例を中心に綴ってきたこの諸宗教対話ではありますが、「対話の前提」となる「その両者の教義や宗旨などについて少し説明が欲しい」という旨のご意見が、ある教団の知人の方から寄せられました。「似ているところを挙げてくだされば理解し易く対話も進むのでは」というご意見でした。

 

なるほどと思いましたので、今回はちょっと趣向を変えてこんな話をさせていただこうと思います。

 

よく「キリスト教もユダヤ教やイスラム教と同じ一神教ですよね」と問われることがあります。身内からすれば「正確には三一神教なんだけどなあ」とか、「ん、そういってしまえばそうだけど」とか、少々、答えに躊躇します。もちろん、世間の評価というか、ザックリとした分類にしてしまえば

いわゆる「一神教」ということになるのでしょう。実際、キリスト教とイスラム教とはユダヤ教と同じ幹から生じたものです。これについての詳細は、今は一旦脇に置き、そもそも一神教という言葉を使うとき、その更なる細かい分類があることを知る人は一般には少ないのではないでしょうか?

 

皆さんは明治の親鸞といわれた清沢満之さんをご存知でしょうか?その著作の一部は今でも一般の書店で手にはいると思います。この人の思想は、わかり易くいえば、そもそも、「やれ一神教だの多神教だのいったことに囚われていてはあまり意味がないのではないか」というもので、わたしもほぼ同様に考えます。大切なのは、その向こう側にあるものですよね。しかし、なお、あえて「一神教分類」についていうとすれば、ということですが、

 

  1. 先ず、「拝」一神教というものがあります。
    教義上の世界観(コスモロジー)は多神教のそれでありながら、礼拝の対象は特定の一者だけ、というのがこれです。例えば清沢師は大谷派の人ですが、真宗の帰依の対象は弥陀一仏で、他の仏様のことは信仰しない、というのもです。本来、諸仏諸菩薩、諸天善神などの全てが拝まれている仏教信仰の世界観からすれば、それは多神教世界といっていい世界観ですが、浄土真宗などは例外で、沢山の仏の中で阿弥陀如来様だけに帰依する、というスタイルです。

    聖書の民であるイスラエルも当初はこれに近い形態を持っていたと思われ、こんにちでは、通常の聖書学においてシンクレティズム(習合)について学ばされると思います。また、エジプトの他の神々のことが「出エジプト記」に出てきたり(12:12)、マルドゥク神の祭司のことや(この手の話は民族史の観点なので、他民族のわたしたちからはおどろおどろしいのですが)、新約聖書では、三博士で知られるゾロアスター教の祭司と思しき登場人物が記されていたりしす(マタイ2:1-12)・
  2. そして、「唯」一神教というものがあります。
    その世界観からして、この世界に神は唯一であって、多くの神々がいるように思えても実は唯一の神がいるだけだと考えるものです。旧約聖書も順序よく並んだ順に書かれているわけではないので、創世記には、時代的に素朴な拝一神教に括れないこの様相が顕著です。その礼拝の対象は天地万物の創造主、主宰者、としての姿を示します。

    キリスト教やイスラム教は、この天地創造を強調するため、唯一神教に分類されることがこれまで多々ありました。しかし、どうやら最新の研究では、なんだか天地創造のビッグバン的なイメージはあまり妥当ではないのではないか、と指摘する人もいます。原文と書かれた当時の背景、また書いた側の世界観など、これらの総合から、近年、最新情報も聞かれますが、ここではその話をする場ではないので、話をもとに戻します。

    ヒンドゥー教や、仏教では密教と呼ばれる類のものは、よくよく見てみると、実はこの唯一神教のように思えてきます。示された諸尊の誰を拝んでいても最終的には、その大もとの至高神のような存在と結びつくという発想にそれはよく表れています。しかし、世間一般では、ヒンドゥー教といえば、多神教の典型のように思われています。

ところで、専門家ではないわたしが、おそらくは不充分であろうこの記事を書くきっかけとなった、その方の教団は仏教系なのですが、その方なりにキリスト教との共通点を挙げてくださいましたので、それもご紹介したく思います。

 

大乗仏教では、法身仏、報身仏、応身仏、と三つに分けた仏陀理解があります。これが三位一体のようだというのです。更に、法華経というお経に「久遠実成の仏」としてお釈迦様の由来が記されています。これが永遠の命への道として、キリスト教に類似を見た気がするというのです。

 

実をいうと、これらは多くの方から指摘されていることで、このような分野の専門家がよく類似性を説明する際に用いられるものです。だからといって直ぐさま万教同根を掲げるのは、対話の促進となるのかどうかそれはわかりませんし、大事な問題ほど性急な結論は避けるべきでしょう。

 

きっかけとしては専門家ではない者同士のやり取りから始まった今回ですが、また、こうしたご意見があれば、わたしにわかる範囲で、なるべく、そして、できるだけ、わかり易くお話ししていくことができればと思います。