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関心

加藤 豊

 

先日、主日(日曜日)のミサにとあるお寺のご住職とそのお嬢様が来られた。正確にはミサに参加したのはお嬢さんのほうで、お父様のご住職はミサの後しばらくしてからご挨拶に見えたのである。

 

こちらの教会の知人のご身内が逝去され、その家の宗旨で葬儀が営まれた際、東京に御用があったため菩提寺からご住職とそのお嬢さんとが来ていたのだ。しかし、何代にも続くような寺院のお嬢様がなぜ、ミサに、と思えたが、何れにしてもこれは素晴らしいことだと感謝した。

 

彼女は高校生だという。それでも、お家の仕事はご住職がなさるお勤めのようなことも含めて既に立派にお手伝いをなさっておられるらしい。そうであれば、学べば学ぶほど他宗教や他宗派に関心を持つのは当然かもしれない。

 

大げさなことをいえば、これまで全人類が例外なく、人の生き死にに立ち会い、時に困窮せる状況に追い込まれながら、人間とは何かを模索し続けてきた。多感な時期にこのテーマが旨に去来するのは宗教的環境に生きる若い世代にはむしろ必然であろう。

 

ミサの後、先の知人からお嬢様のほうを紹介され、午後あらためてお父様のご住職と一緒に教会に来られた。ご無礼にならぬよう緊張もしたが、なんとも喜ばしく感じた。

 

聞けば臨済宗であるという。短い時間ではあったがお互いの関心事をお話しした。娘さんは他にもおられるようだが、特に今回来られたお嬢様が一番こうした宗教的関心が強いらしく、ご本人の勉強という意味でもこの日の出会いを勧めてくださったようである。なんと寛容、寛大なことであろう。またお会いできればという思いを抱きながら敬意のうちにお二人をお見送りした。

 

「対話」をアカデミック概念に閉じ込めてはならない。それは小さな交流の積み重ねからお互いが感じ取る新鮮さであろう。