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顔つき

加藤 豊 神父

 

四旬節第二主日のミサの福音について

[マタイによる福音書 17章1節から9節]

 

[顔つき]

 

 

マタイ17章の「主の変容」といわれる場面からです。夏(8月)になると、そのままのこの小見出しのようなタイトルで「主の変容の祝日」と言うお祝い日があります。


何処だったのか、タボル山か。最近知ったのですが、この出来事の舞台となった「変容の山」だと伝えられる場所は、どうやら一箇所とは言い切れないようですが、この種の説については、結構みんな言いたいことを言ったりするので、学術的には、どこまで信憑性が有るのか解りません。でも、そう言うのもまた面白いんですよね。そもそもこの題材となった伝承も、一つや二つではなかったのかもしれません。

 

以前、「この時のイエスの顔つきには底知れぬ迫力があったろうな」と言っている司祭がいました。これまたやれ「聖書学的にどうの」とか、「史実だと思っているのか?」とか、食事中のたわいもない普段の会話やり取りにまで文句をつける人もいて、全くナンセンスこの上ないのですが、多分、普通の私のことを普通に話せる相手だろうと思ってくださったので、その神父様は、ふと思われたことを話してくれたわけです。

 

「底知れぬ迫力」とは。

正に、これから本格的にご自分の使命を果たすために旅に出かける前のイエスの顔つきと言うわけです。その神父様は「気合が入っていた」との言い方もなさいました。それを聞いて私も聖歌を思い浮かべていました。

「♩主を仰ぎ見て光を受けよう。主が訪れる人の顔は輝く」(典礼聖歌128)。

 

「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(マタイ17:2)。

典礼色では白は光を表しますが、日本ではむしろ清潔な感じはするが「無色」という印象、欧州の感覚で光は白と言うことでしょうね。ようは、光り輝きを表現する際の色彩的印象付けとしてこの時のイエスの服が輝きます。

 

顔つきですが、およそ何かに真剣に取り組む人の顔は輝かしく、陸上や体操その他、W杯、と言うスポーツ選手、アスリートたちの顔つき、あれは作為的に表せる表情ではありません。清々しくもあり、皆それを見て「いい顔しているね」とか、「いい笑顔だね」と言います。解説者やアナウンサーまでもがそんなことを言います。スポーツだけではないでしょう。人が真剣に何かと向き合っている時、意識を集中して無心に一つのことに心を向ける時、それはまるで周囲に輝きを放っているかのように見えるのです。「気合が入っている」わけですね。


繰り返しますが、もちろん、ここには何らの「聖書学的」な根拠とやらは考慮されません。ただし、これはリアリティーです。人の顔つきは、取り組む姿勢によって変わってしまいます。これは皆が経験させられることです。また、「主の変容」の神秘を即「気合の入ったイエスの姿」に一般化するつもりは毛頭(その神父様も私にも)ありません。神秘はどこまでも神秘だからです。しかし、ここでもやはりリアリティーが重要になってきます。日常から非日常への架け橋がなければ、私たちは神秘に近づくことさえできないでしょう。

 

シラフに戻ったペトロは、夢のような現実を体験しました。でも、それは現実を超えている事柄であり、同時にまた、夢でもないわけです。皆さんも、お近くにおられる方々の中で、何かに真剣に取り組む人たちの姿を見て、その背後に神ご自身の秘められたみ旨をすかし読みする機会があろうかと思います。救急車や消防車、パトカーの車内、病院の手術室、無心に使命を果たす輝かしい光景はもっと知られてもいいくらいです。

 

今日も朝からボーっとした顔つきで自分の顔を眺めて歯を磨く私が、尊大にも「顔つき」とその輝きについてお話しするのも憚られるのですが、「主の変容」の場面から、読み取れたあれこれを描いて見ました。この文を、その着装のきっかけとなったK.K師への感謝のうちに終わります。