· 

託される愛、示される希望(申命記33章~34章から見えてくる「流れる時」の中で)

加藤 豊 神父

 

 戦国時代は人間五十年などと謳われていましたね。信長はそれを口ずさみ舞いながら本能寺で没したと伝えられます。大志を抱きつつも、時間がそれを許してくれないために無念の死を遂げたという偉人は古今東西にいるでしょう。信長は「潔さに過ぎている」ようにみえますけどね。

 

 そのなかには、時間が足りなくて望み通りにいかなかったことを口惜しく思う人もいるかと思えば、逆にそういう自分の運命を「然り」として息を引き取る人もいます。「然り」あるいは「我が人生に悔いなし」という最後は、本当にそういう人生だったのか、また、そうとは思えないような現実だったのか、といった状況認識を軽々と退け、その人の根底から湧き上がる本音中の本音として叫ばれる確信だと感じられます。

 

 もう、そうなってしまうと、そういう人には自己実現のための条件の有利不利などはほとんど価値を持たず、さしたる「無念」や「未練」も手を出せない。そのため「悲哀」も「後悔」もその魔力を完全に失います。わたしはそういう人を「本当の自由な人」「解き放たれた人」だと密かに思っています(ここに書いてしまえば「密か」にではなくなりますが)。そもそも「願い」というものは、極まれば「無私の力強さ」を表すほどのものでありましょう。

 

 モーセは、みずからは「約束の地」には入れませんでした。「主は彼(モーセ)に言われた。『これが、アブラハム、イサク、ヤコブに対し、私があなたの子孫に与えると誓った地である。私はあなたの目に見せるが、あなたはそこに渡っていくことはできない。』主の僕モーセは、主の言葉のとおり、モアブの地で死んだ」(申34・4-5)。

 

 しかし「いったいわたしは何のためにここまで来たのか」などとはいいません。つまりモーセは、それが「無意味なものであった」とも、「何某かをやり残した」などとも、微塵も思はないどころか、むしろ「民が約束の地に入る様子」を眺めながら大いなる喜びに浸るかのような印象を抱かせます。

 

 「イスラエルは安らかに住みヤコブの泉だけが枯れない。地には穀物と新しいぶどう酒が溢れ天も露を滴らせる。イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。あなたのように主に救われた民があろうか」(申33・28-29a)。

 

 人間五十年の時代であれば、もうそれくらいの歳になったなら、人はそれまで「夢を追い、目標に向かって進む」姿勢から、「夢を託し、目標を示す」姿勢へと変化していくはずです。それにも関わらず、人によっては何歳(いくつ)になってもそうならないという現象は何に起因するのかというと、ひとつには現代社会における平均寿命が延びたことによる「願望達成は自分の代で」という執着心の増大だと思います。

 

 (ちなみに「モーセは死んだとき、百二十歳であったが、目もかすまず、気力も失せていなかった」-申34・7、とあります。「えっ」という感じです。いずれにせよ、長生きなのに現代人より執着がない。これって実年齢というより成熟度年齢では?と。何故なら力が有り余っていても「み旨」でなければそれを勝手に使うことなどないからです。)

 

 次に「夢や目標として思い描いているもの」が、本当はその人の個人の満足のためのモチーフや材料に過ぎない事実に自分自身が気づいていないこと、つまり「満足を得たい思い」が先にあり、「夢」や「目標」に見えるものは実は「他所からの借り物」で、本来の狙いとしては「満足を得たい思い」を遂げることであるため、「夢を託し、目標を示す」側に回ってしまうと、本来の狙いであるところの満足が得られなくなってしまうから、ではないかと思います。

 

 生きている時間には限りがある、ということについては、信長のみならず昔の人のほうが、敏感だったろうと思うのです。最近ではあまり「いい歳して」とか「大人なんだから」という揶揄を聞きません。わたしも知らず知らずのうちに「いい歳して」という歳になり、「大人なんだから」と、自制心を保とうとする今日この頃なわけですが、それは老け込むことではなく、出来るだけ成熟したいからですよね。

 

 実際「気が若いこと」はいいことでしょうし(申34・7のモーセのように)、また、心がけ次第で「若さ」は得られる時代です。いつまでも「夢を追い、目標に向かって進む」こと、「諦めないこと」それじたいは大切なことでしょう(それはある意味で「いにしえの神は隠れ家、とこしえの腕で下から支えてくださる」―申33・27aにも見える信頼感ですからね)。

 

 しかし同時に、その夢や目標に対して心底本気であるならば、「夢を託し、目標を示す」ことには何ら抵抗はないはずなのです。それはモーセの晩年に見いだすことが出来る一人の人間の高貴な姿に明らかだと思います。「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に両手を置いたからである」(申34・9)。

 

 教会の未来を憂う人は多いのです。だが、自分の教会の自分の目の前にいる子供に対し、大人たちははさほど関心を示しません。その子は、その教会では、一番身近な教会の未来であるはずなのに(何故これらの関連性が見えてこないのでしょうか)。

 

 もとより「若々しいこと」と「子供っぽいこと」とは全く違いますから、その夢を愛し続け、その目標を大事に思い続けるためには、わたしたちの心境も一定の成熟度に達していなければならず(たとえ「智恵の霊に満ちた状態」に至らずとも)、その度合いこそが、時間と向き合うことができる成熟した人間性へとわたしたちをして向かわしめ、やがて「願い」は達せられ、欲せずとも「満足」のほうから、わたしたちのもとへと訪れ来たることになるでしょう。

 

 「地とそれに満ちるものの賜物、柴の中におられた方の恵み。これらがヨセフの頭に、その兄弟のうちから選ばれた者の頭上に臨むように」(申33・16)。