加藤 豊 神父
召命と人間苦に関するお話をしておきたいと思います。
教会はともすれば振り返りを忘れ、ただただ活発に前に進むことになって後から疲れ果ててしまいます。ここでいう振り返りとは、何故、自分は信じているのか、信じていられるのか、とか、または何故、自分はキリスト者であり続けるのか、という自己理解に及ぶものです。
第二ヴァティカン公会議の公文書「教会憲章」は教会の自己理解をこう表現しています。「旅する神の民」。「旅」とは、いわゆる旅行ではなく、人生そのものです。人の一生はあたかも荒れ野に見立てられたこの世を旅する旅人のようなものだというわけです。このモチーフは旧約的なそれです。
新約的な観点からのものも古くからあります。「キリストの神秘体」がそれです。地上の教会は、キリストを頭としたその肢体であるというのです。
何れにしても、「わたしはこういうものです」という自己紹介が出来なければ、他者との対話はできません。つまり、こうした自己理解の延長線上にあるものは「宣教」です。皆さんは、教会です。教会の外の人たちに対して自己紹介できますか?
更に、ここでいう召命も司祭や修道者、あるいは結婚やその他独自の使命についてこう呼んでいる概念よりも、もっと根本的なものです。つまり、この人生がそもそも召命なわけです。わたしたちは、気がついたら今の自分だったのです。自分が望んだのでしょうか、それとも、そう招かれて答えたのでしょうか。
イエスはメシアとしての使命を果たしますが、贖いの業は、前にもお話ししましたように、悲惨な悍ましい御姿です。罪なきものが大罪人と同じく断罪され、殺されます。不条理そのものです。
ところで、わたしたち一人一人の人生にも不条理が生じます。避けても避けきれず、それはやってきます。ある時は突然、ある時は嫌な予感から、何となく分かってはいたものの、やっぱりなあ、といった具合にです。
そういう人生の不条理を前に、メシアの体験せる不条理は特別の意味を持ちます。人は何よりも理由を知りたい存在です。知的生命体なのです。だから自死者も死を前に遺書を書くほどです。生きるにしても、死ぬにしても人間には理由がいるのであり、種々様々な物事について納得できない事態には不安のまま突き進むことになります。
「わけがわからない」と人々は時折、嘆きます。しかし、順風満帆のときは、「わけ」はどうでもよかったはずです。もう何十年も前のこと、聖木曜日「主の晩餐」の日のことでした。侍者をしにきた小さな男の子がミサの前に香部屋に来てこう聞いたのです。
「ねえ、なんで今日、日曜じゃないのにミサがあるの」。
その日の司式司祭はこう答えました。「今日はイエス様が逮捕された記念をするんだよ」。
すると男の子は「逮捕って、なんか悪いことしたの?」。
それに対して、「病人を直したり、仲間はずれにされた人にやさしくしたり、困っている人の話を聞いたりしてたら逮捕されちゃったんだよ」と司祭が答えます。
すると男の子は一言「へんなの」。
そうです。「へん」なのです。へんなことが結構おきるのです。だからわたしたちは悩むのです。悩みは人生につきもので、それじたいがわたしたちを悩ませもします。
そんなとき、主のご受難から発せられるメッセージとは...