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「疲れた者、重荷を思うものは誰でもわたしのもとに来なさい」

(マタイ福音11章28節)

 

加藤 豊 神父

 

 生きている限り人は重荷を背負います。だから、あまりに辛くあまりに重荷が耐え難いとき、生きるのが嫌にもなります。このように思うなら「神の痛み」という表現は奇妙だがリアルです。

 

 もっとも、みずから追ってしまう重荷もあり、成り行きから負わされる重荷もあるでしょう。更に複雑なのは「意味があれば」重荷を負うことを負担に感じないかもしれないという数々の事例があることです。

 

 家族や友人、その他諸々、愛する者のために負うことになった重荷であれば、むしろ、その重荷を進んで負うのかもしれません。しかも、これは一見
どう見ても「きれいごと」だと思えるくらいの美談に思えたとしても、事実あちらこちらで起きている現実です。

 

 そういうことがノンフィクションでありながらなぜか「きれいごと」に思えてしまうのは、実際には「よくあること」でも、ドラマや映画では、それらを「劇的」に描くものだから、返ってリアリティーがなく、それらをして「きれいごと」だというのであれば、それはわたしもそう思います。ただし、その類のドラマや映画は、ドキュメンタリーであろうがなかろうが、とにかく「劇的」描きますから、それが作品の芸術的表現の評価や興行収入にも影響し、「おもしろくない」描き方では不味いわけです。

 

 よく「事実は小説よりも奇なり」といいますが、デフォルメは描写法としては必須なので、そのため「小説」は「事実」よりも「奇なり」にしてしまうことがあります。これはいわば「素材よりも調味料に頼り過ぎた味」がする食べ物と似ています。しかし、グルメは素材の味にこだわるでしょう。

 

 ところで、動機と無関係に考えた場合、やはり重荷を負うことはたいへんなことです。「他人の重荷になりたくない」あるいは「他人に自分の重荷を負わせたくない」という人は、結局みずからの重荷を背負い過ぎて自滅してしまいそうな幸薄いお人好しとなり。逆に「他人にだけ重荷を負わせてしまえばいい」という人はその思いに気づかれた途端「そいつはごめんだ」と周囲が引いていくでしょう(仕方なく「しがらみ」で繋がっていることはあり得ますが、心は離れていくのです)。これまた不幸なことです。

 

 主イエスは、わたしのもとに来なさい。とおっしゃていますが、「それじゃ、俺のもお願いしたい。イエスはどこにいるのか?」と探し回っても多分、空回りになることが往々にしてあるでしょう。それでも「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ7・7)となっていますから、求め続けていれば探せるとは思いますが、大概、途中でそれじたいが面倒になって求めなくなってしまうことがあります。

 

 「イエスはどこにおられるのか」、およそこれはイエスを探すきっかけとなるわけですが、空腹だからと行って「なんでもいいから」とばかりに、毒物をお腹いっぱい食べてはなりません。それにイエスは「一緒に背負うよ」といっておられるのであって、自分の重荷を放棄することのみを望んでもそれはできないことでしょう。例えば、夜中にトイレに行きたくなったとして、起きるのがどんなに苦痛でも、これは他人には代わってもらえませんよね。

 

 だから「重荷が重い」と感じるとき、それを全部取り去ると、もうそれは自分自身が感じる苦楽ではなくなってしまいます。「素材」がないのにどうして「味付け」などできるでしょうか?暑いと感じるからこそ、風は涼しく、寒いと感じるからこそ、陽だまりは暖かく心地好いのです。こうした感性から日々を過ごすなら、それなら、いつかはイエスを探せるのではないでしょうか。

 

 重荷を共に負ってくださるイエスのもとに行きたいと望むとき、イエスを追い求めているはずなのに、ちょっとしたアクシデントからいつの間にか逆方向に向かってしまい、挙句、重荷を益々、重苦しく感じるようになってしまうのは悲しいことだし、結局「最初から追い求めなけらばよかった」という徒労感に浸ってしまうなら、それは余計に苦しいですよね。

 

 「イエスと共に」とは、軽く聞き流してしまえばもうそれだけですが、求め続けている人にとっては、求道の前提となるものです。