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無神論という錯覚

加藤 豊 神父

 

イスラム教文化圏はこんにちんどれほど多く拡張していることだろう。中東だけではない。その他のアジア西域、中北アフリカ、インドネシアなど東南アジア、日本にだって居る。その人たちの多くは日本在住の中東や北部アフリカの人だが、日本人イスラム教徒も居る。世界のいわゆる先進国といわれるような国々にイスラム教徒も散在している。

 

しかし、それに対していわゆる先進諸国といわれる国々というのは「無神論者」や「無宗教者」を自称する人たちが沢山いる。こうした定義が字義通りであれば、共存できるはずがない。ではいったい、何がどうなっているのか、字義通りではないということなのか、というと、実際、字義通りではない。

 

昔からイデーローグたちはこういっては相手に対して理論武装した。「わたしはノンポリで主義主張などありませんという人がいるが、それじたいが主義主張ではないか」と。同じことが信仰についてもいえる。「わたしは何教徒でもありませんという人がいるが、それじたいが一つの信仰ではないか」と。

 

イスラム教国の人たちには、概ね親日家が多いように思われる。少なくとも、かつて年がら年中ロシアと揉めていたトルコなどは、日露戦争に勝った日本をアジア諸国の他の国と比較し特別視する。しかし、日本人にとってイスラム教の国であるトルコに心底、親近感を持っているという人はあまりいない気がするのはわたしだけだろうか。

 

そしてこんにち、日本人は安易に「無神論者」を自称する。毎年、初詣に行く人たちが、である。その人たちは、結構、せっせとお墓参りに行く。わたしよりもずっと信心深いようにしか思えない。その人たちはいう。「あれは(初詣やお墓参り)は宗教ではありませんから」。なるほど、だとするとキリスト教も宗教ではないだろう。つまり日本社会では(誤解を恐れずにいえば)「宗教」という言葉そのものが「汚れている」。汚したのは誰か、頭のおかしな教祖たちであり、怪しげな連中である。

 

イスラム教国の人たちにとって、その信仰は生活様式であり、文化である。現代日本社会は、信じるという営みに不信感があり、結局、何を信じていいのかわからず迷う。そこにあの連中がやって来る。これは人の弱みに付け込む布教である。然るに、賢い人ほど、信じられるものが限られてきてしまう。その結果が初詣やお墓参りとなる。

 

以前には、「家族」や「自分」も信仰(信頼)の対象だった。しかし今や、家庭は崩壊の危機に瀕していて、自分を信じられないという人が益々、増えている。それでも多分、言葉にならない何かを信じている。だからイスラム教徒もそれを感じる際には日本人に好感を持つ。

 

そもそも「無神論者」であるなら、生涯をかけて「神の不存在」を証明しなければならぬであろう。「論」である限り。物事は字義通りではない。特にこうした物事は。

 

それを意識した上で、わたしたちはキリスト教徒であらねばならないし、これらを字義通りに捕らえているキリスト者は(カルト以外には)いないはずである。無宗教はともかくとしても、無神論はいわば錯覚であるといえる。これは重要なことだと思う。わたしたちは自分がキリスト者であるならば、キリスト者だと錯覚している事態だけは避けねばならないからである。