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「ねばならない」という強迫観念

加藤 豊 神父

 

かつてスイスの神学者カール・バルトはこういいました。「信仰とは空の器である」と。つまり信仰そのものは容器のようなもので、その空洞のパイプの内側を通ってくる聖霊の働きこそ重要なのだというわけです。

 

プロテスタントの人ですし、カトリックの啓示論の講義であっても必ず、名前が挙がってくる人とはいえ、その思想はやはりプロテスタント的なものと言えそうですから、「どうしようか、諸宗教対話の記事としたほうがいいだろうか」とも思いましたが、こちらにしました。はじめのうちはちょっと危険視されてた神学者さんです。

 

彼の三位一体に関する言葉も特徴的で(彼らしくて)、「啓示する者、啓示を受けた者、啓示そのもの」というなんだかアウグスティヌスの「愛する者、愛される者、愛そのもの」みたいな論法です。というより、そもそもアウグスティヌスを好むプロテスタント諸教会はけっこう多い気がします。特にその予定論はカルヴァンに相当影響しているみたいです。

 

さて、バルトの神学といえばすぐに「啓示」を想起する人はいて、わたしもそうです。いうまでもなくカトリックもプロテスタントも啓示の充満、公的な啓示の完成は(カトリックには私的啓示や他宗教における真理と啓示という考え方もありますが)イエス・キリストの他に求められることはありません。にも関わらず、一人一人の信仰には啓示という中身が必要だといいます。

 

ところで、「ねばならない」として、掟や福音を受けとめる人が沢山いますが、これは啓示に基づかず、その人の感性に由来することがほとんどです。信仰の恵みは、具体的には囚われからの開放や自由と安らぎではないかと思うのですが、「ねばならない」に自由はありませんよね。場合によっては、これこそ一つの「囚われ」ではないでしょうか。福音的な勧めを聞いて、みずからの自由な思いから「こうしよう」と思うことと、「ねばならない」という感覚でそうするのとは、外からは同じようなものに見えるが、内容は正反対です。

 

信仰はイデオロギーではありません。そんなことは、実は旧約聖書の時代から知られていたことです。それがイエスの時代には、「ねばならない」という人間社会における上から下への命令のようなものに変質してしまいました。そうすると、「ここまでならいいだろう」とか「これなら罪にはならないだろう」と
いった具合に、ファリサイ的な自己正当化にだけ気にするスタイルが主流のようになり、神への愛はどこかに消えてしまうのです。神を愛する者であれば、できればその愛に反したことはしたくないはずです。命令されているからしないのではなく、気持ちの上でそうしたくないのです。

 

いかがでしょうか、皆さんは恩義を感じた相手に気持ちを示すことを知っているはずです。それなのにこと神が相手となると、恩義からではなく、裁かれたくないという自己正当化の衝動が蠢き、それを動機の中心にして掟を実行しようとします。で、実行できずに苦しんだりする。この場合、動機に無理があるのです。

 

いただいた恵みを振り返って感謝の心を呼び覚ましましょう。そこから自分でも意外な計算外の力が湧いてきます。これが啓示を受けた者に共通なエネルギーだと思います。ここから完全なる啓示の充満であるイエスを仰ぎ見てみましょう。信仰を意志の強さを競う「精神論」のように理解したり、人間的な地平による決意を基準に聖人たちを敬うようなことはやめましょう。聖人崇敬は異教的英雄崇拝とは根本的に違うのです。結局のところ、決心を果たせなかったという弱さの自覚こそが神の憐れみにすがる謙遜な態度に至らしめる第一歩なのですから、むしろそのほうがいい。

 

神への愛は、愛する側のその人の心を動かし、心が動けば、事態も動き、山も動きます。しかし、心が硬直していれば、踏み出そうとする一歩も何と重たいことか。誤解を恐れずいえば、感謝こそ商業的な営みには必要な要素ですから、その結果、経済もまた動くといっても過言ではないでしょう(景気の「気」は気分の「気」だと聞いたことがあります)。

 

神への愛などというと大層な言い方ですね。要は素朴な感謝こそ、わたしたちが持ちうる至高の捧げものではないでしょうか。そして「空の器」の内部で神と人との出会いが起きたとき、「ねばならない」という息苦しい義務感とは相入れない活発な心が動き始めることでしょう。