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「四旬節の荒れ野」を思う

G.T.

 

 神様の御力と御業によってエジプトから脱出したイスラエルの民は、神様に対する不信と反抗の結果、約束された地に入ることができなくなり、40年間荒れ野をさまようこととなりました(民数記32・13、詩編95・9₋11参照)。イスラエルの民は、約束の地にいた彼らより強く大きく見える民族に殺されるのを恐れ、神様が彼らをそこに連れて行くことができるとは信じず、諦めたがったのです。

 

 私はかつて、なぜイスラエルの民は自分自身のことをそのような苦境に陥らせたのだろうか、と不思議に思ったことがあります。なぜなら、イスラエルの民は神様に当時世の中で最大文明のエジプトから救い出されたばかりで、すでに神様のさまざまな壮大な御業と彼らの敵に対する偉大な勝利を目の当たりにしていたからです。

 

 しかし年が経つにつれて、私自身も同じようにすることがあることに気が付きました。いつも普段の生活に神様からたくさんのお恵みと助けを賜っているにもかかわらず、自分の勝手な言い訳で神様のお導きを求めず、神様のご意志を背いたりすることがあります。

 

 イスラエルの民が荒れ野で40年間さまようことは試練の期間でした。「主はあなたを苦しめ、試み、あなたの心にあるもの、すなわちその戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(申命記8・2)とモーセはイスラエルの人々に語りました。イスラエルの民の試練は、彼らが神の戒めに従うかどうかを見る以上のことを伴いました。 荒れ野での彼らの試練は、彼らの心を試すことを目的とされていました。

 

 そして、私たちが自身の荒れ野を経験する時、すなわち、私たちが人生の試練または祈りの苦闘を経験する時、神様が私たちに同じことをされているかもしれないことを思い出すべきです。

 

 神様は私たち自身の心を試されているのかもしれません。私たちの心は他ならなく本当に神様だけに向いているのか、それとも、主が私たちのためになさったことだけに主に献身しているのでしょうか。

 

 これこそイスラエルの民が直面していた試練です。エジプトでは、イスラエルの人々は奴隷から解放され、彼らの敵に対する神様の勝利を目撃した後、神様の賛美を歌い、彼らの救い主である主のうちに喜びました。しかし、荒れ野へ連れ出された時、物事は大変異なったものになりました。

 

 彼らは謙虚にさせられ、馴染みのあるもの全てから離され、食べ物も飲み物もなく荒野を旅し、主が次に彼らを導く場所がわからず、約束の地にたどり着くかどうか疑問に思いました。 揺さぶられ、彼らは疑い始めました。 彼らは恐れ始め、不平を言い始めました。 彼らはエジプトに戻ろうとさえ、考えていました。少なくともそれは彼らにとって馴染みのある所だったからです。

 

 彼らは今、何をすればいいのでしょうか。主が彼らを導くことを本当に許すのでしょうか。 自分の人生を完全に神様に委ねるのでしょうか?それとも、自分の計画や時刻表を信頼し、自分の人生が神様の御言葉によって導かれることを許さず、手放すことを恐れながら、必死に自分の支配を維持するのでしょうか?

 

 モーセがイスラエルの人々に説明したように、主は「あなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった」(申命記8・3)。

 

 四旬節の始まりに私たち自身が荒れ野に入ると、神様もしばしば私たちの心を試されることに気付くべきです。イスラエルの民が荒れ野で直面したような人生の瞬間、すなわち、不確実性、混乱、試練、疑いなどの瞬間に直面する時、私たちは何をしますか?

 

 私たちの世界が予期せぬ変化や苦しみによって揺さぶられる時、自分の人生がどこに向かっているのかが分からなくなり、不安を感じることがあります。あるいは、霊的乾燥を経験し、通常の祈りと信心業がうまく機能していないように思える時、「神様はどこにおられるのか」と疑問に思うでしょう。

 

 荒れ野に投げ込まれた時、パニックに陥るか、人生で落胆したくなるかもしれません。過去に喜びをもたらした人生経験を必死に再現しようとしたり、主が私たちを引き離すかもしれない霊的な慣行にしがみついたりして、後戻りしたくなるかもしれません。

 

 私たちは、荒れ野で神様がいつも共におられることを覚えておくべきです。そして、神様は私たちを、荒れ野を通って、その向こう側に導かれたいのです。そこでは、霊的な生活の成長があり、私たちの生活がいかに神様だけに完全に依存しているかを、より深く理解することができるのです。荒れ野を通って、神様は、ご自身にもっと委ね、ご自身の導きの御手を信頼するよう、私たちを呼ばれています。神様は、私たちの祈りの暗闇の中で、もっと深くご自身の存在を体験し、私たちの苦しみの中で私たちを支えられたいのです。

 

 四旬節の40日間を通して、私たちは荒れ野での主イエスの試練の神秘に心を合わせます(カトリック教会のカテキズム、540番参照)。そして荒れ野では、「人間はパンだけで生きているのではなく、主の口から出るすべてのものによって生きている」(マタイ4・4)と思い起こされます。