加藤 豊 神父
四旬節第三主日のミサの福音について
[ヨハネによる福音書 4章5節から42節]
イエスとサマリアの婦人との会話(4・21)
「この山でもエルサレムでもない所で」
小金井教会でもなく、ヨハネ会修道院でもなく、カテドラルでもなく、イグナチオ教会でもなく、東京ドームでもなく....。
(ミサに集まれないわたしたち)
『聖書と典礼』と併せてお読みください。
ヨハネ福音書4・5₋42、3月15日(日)のミサで読まれるはずだった福音箇所です。本当に残念なことですが、最悪、命に関わることなので、この度の教区の対応は致し方ありません。
誰のせいでもない。それなのに誰かを恨むなら、その矛先は様々な方向へと向けられます。早くも行政や国際社会に対する種々の評論が繰り返されていて、
それが建設的なものであればいいのですが、批判したいがための批判であるかのような印象を持ってしまった人たちは批判者(特にマスコミ)の側が考えているよりも多いと思います。庶民を見下してはいけません、見るものはしっかり見ているのです。何も言わないとしても。
そういう庶民の中には、この福音箇所に登場する「サマリアの婦人」のような人たちが沢山いて、ただただ訳ありの状態に甘んじているようにみえても実は賢く聡明です。実は現代においても、イスラエル国内でのサマリア地区は困難な場所となっていて、ゲリジム山を聖なる峰として崇めるサマリア教という独自の信仰を保っています。エルサレムの神殿の縮小版のような彼らの神殿が聖なる祭儀の場です。これについての詳しい話はかなり複雑で長くなりますから、ここでは「ユダヤ教を模した信仰」といった具合にザックリとした認識があればいいでしょう。
イエスの当時、サマリア人は特に純血主義のユダヤ人から差別され、もともとはユダヤ人だったにもかかわらず、サマリアという地域に(ユダヤ人とは離れて)生活していました。そんな両者の険悪な関係が背後にありながら、イエスはまるで何も気にせず、喉が渇いたからといっては、サマリア人の婦人に「水を飲ませてください」と頼みます(4・7)。
彼女はそれに答えて言います。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」(4・9)。
両者の険悪な関係を想像すれば、このイエスの言動は彼女にとって不思議で仕方なかったでしょう。イエスはいわば実に自然体で構えません。サマリアの婦人を、サマリア人だからといって嫌悪もしないし、逆に「哀れな人だから親切にしてあげなきゃ」という優越感に由来した相手を見下す不自然な態度も取りません。ともあれ、こうしたやり取りが続き、ついに信仰の話題が出てきます(4・10)。
そしてイエスはこんなことを言います。
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもないところで、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から(の方から)来るからだ。しかし(そうだとしても)まことの礼拝をする者たちが、霊と真理を持って父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(4・21)。
実はこのコラムの「諸宗教対話」の方で、「今、ここで(Hic et Nunch)」というタイトルの文を書きました。ここでイエスがおっしゃっておられることは、「どこの山で何時頃か」ということではなく、サマリアの婦人とイエスがおられるその場であり、わたしたちが普段過ごしているその場、すなわち「ここで」ということと、「何時」ではなく「今」ということです。
「神は霊である」からこそ、「時」も「場所」も真に霊的な事柄からは副次的なのです。重要なことは測ったり、陣取ったり、といったこの世的で肉的(物質的)なものではない礼拝、「今、ここで」で、つまり「どこであれ、いつであれ、そこに、そのとき、」居合わせるわたしたちの側の「霊と真理による礼拝」なのです。聖堂(場所)で日曜日(時)にミサを捧げることが出来ない「今」、これを見ておられる方がおられる所で、それを思い浮かべるには一つの機会となるタイミングだからこそ、わたしはそのことを強調したいのです。
その昔、ドイツの神秘主義者でエックハルトというドミニコ会の司祭がいました。彼は言います(「マイスター・エックハルト『神の慰めの書』」講談社学術文庫参照)。
「無論、断食や勤行は尊い行為である。しかし、真の従順から行うならば、皿を洗うことであってもそれは断食や勤行、その他の祈祷にも勝るのである」。
ご聖櫃がある聖堂は、寝室より、尊いものでありましょう。しかし、寝室でも霊と真理による礼拝を心がけるなら。集まって祈る典礼のひと時は、電車で移動している時より、尊いものでありましょう。しかし、そこでも霊と真理による礼拝を心がけて祈ることができるなら、そのとき、というのは。
誤解を恐れずに、あえて大胆なことを言ってしまうと、その「とき」その「場」は、内面的には、また霊的には、カテドラルやイグナチオ教会に匹敵するものとなる可能性さえあるのです。「この山でも、エルサレムでもないところ」とは、人の眼には常に隠れていて、それでいて確かにあるのです。
「お前の話は異端的な神秘思想に偏りすぎだ」と言われてしまうかもしれません。わたしだって、普段こんなことばかり考えているわけではありません。しかし、この時世この現状なのです。これをどうすれば、主のために用いることが出来るのかは、それぞれの司祭も修道者も皆なにかしら思い巡らしているはずです。少なくともわたし個人の場合、自分が受け持たせていただいている小金井教会(ここで)このような期間(今)どういう思いでいるかというのを、皆さんと分かち合いたいと思ったのであります。