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自然災害とキリスト教

加藤 豊 神父

 

自然災害と宗教の教義、これはいろいろな人の疑問でしょう。キリスト教においても(というかキリスト教は特に)天地創造に関する教話を展開するのであり、そこから世界観や人間観を導き出して教義化するわけですから、こうした部分に対する素朴な疑問はむしろ日常的に湧いてきます。

 

全てこの世のものは(自然法則をも含め)神様がお造りになったと皆さんも聞かされていらっしゃるでしょう。しかもなおその神様は全知、全能、全善といわれ、創造主が全然であるがゆえ、少なくとも自然災害という人間にとっては悪であるような結果が起きた場合、人間の側が(全善である神に対して)悪かったからという説明が容易に成り立ってしまいがちで、そうではない説明がほとんど言い訳がましく響いてしまったりします。

 

以前は、いわゆる一門一答の「公教要理」に書かれていた(今もかな?)「神とはなんですか?」という問いの答えが上述した「神とは、全知、全能、全善にして天地万物の創造主」云々であります。

 

その昔(かなり昔ですが)グノーシス主義と呼ばれた人々がいました。この人たちの言説については、キリスト教的にはともかく、聞く人によっては理屈に筋が通っていると思われるもかもしれません。グノーシスの人たちは、やはりイエス・キリストが救い主であるというのです。

 

しかし、この世を造った創造主を「造物主」といって物質世界にわたしたちを閉じ込めた悪者だといっています。本当の神様は物質世界にではなく、精神世界にいて、わたしたちをこの世から解放するためにイエス・キリストが来たのだというのです。こうなってしまうともう当然キリスト教とはいえないわけですが、あまりにも教えの概要がすっきりしているのでその分、結構流行ったみたいです。

 

「ちょっとなあ」と思う反面わたしたちにはこの問題、即ち神様の善性とこの世の不条理を理論的に説明することにいつも確かな困難を感じるということが多いのではないでしょうか?こうしたことは実は特定の答えがないのが現実ですが、その替わり「答える」側が、問う側の問いを受けとめて「応える」必要があるでしょう。その最も顕著に「応える」仕方は共感でろうと思うのです。

 

問う人それぞれに、その問いによって苦しめられている場合、問う人の視点、そこから垣間見られるであろう実直な疑問、それをどう受けとめればいいのか、という点に注目したいものです。

 

ある時、前教皇(名誉教皇)ベネディクト16世は、6歳の少女が抱える素直な疑問に応えていました。

 

少女はいいました。「どうして神様は地震の時に助けてくださらなかったの?」今聞いても胸が痛くなる問いです。

教皇は先ず、このようにいったと思います。「辛いですよね。本当に悲しいことですね」。

 

また、ごく身近な出来事として、イスカリオテのユダがあまりにも可哀想ではないか、という入門者からの問いかけが、ある教会の講座においてありました。講師の司祭はこういいました。「そうですね。確かにユダもカインも可哀想ですね」。

 

共感だけでははおよそ「答」にはならないかもしれませんが、しかし問う側の反応は何かしら安堵したものでした。「答」にはなっていなくても「応」えてもらえたからではないかと思います。もちろんこれらはほんの一例に過ぎず、皆が皆これで納得がいくわけではありません。

 

とはいえ上記の場面は今もわたしにとって衝撃的な思い出なのです。