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番外編(立ちはだかる「新型コロナウィルス」を巡って)

加藤 豊

 

 「ウィルスは生命ではない」といわれる。この場合「生命」の定義は如何なるものであろうか。「生命」ではない、と聞いても「ああ、そうですか」で終わってしまうくらいのカテゴライズに思えるのはわたしが、いわゆる東洋の人間だからか。これまた「東洋」のカテゴライズが安易に思える。しかし、そう思えるのは、わたしがいわゆる「現代人」だからか。これまた「現代人」論が安易に思われる。

 

 「ウィルスは生命ではない」らしく「菌」でもないらしい。だが少なくとも無機物ではない、と定義できると思う。否そもそも無機物であろうがなかろうが、
人類同様「この世のもの」である。「この世のもの」であれば生じたり滅したりする。事実そうなっており、ウィルスも滅しないために必死になって(という表現がそもそも「擬人法」なのか)生存できる先の種を探し回るし、その種たるものは確実に「生命」であり、それどころか「生命」であることが当然とみられている「生物」である。そこにいわば寄生する(ここでも「生」という文字が付くが)。そうしないと繁栄できない。その限りにおいて相手と生き残り合戦を繰り広げる。

 

 ここで多くの場合思い起こされるであろう言葉は概ね「アニミズム」であろう。「全ての生きとし生けるものにはその内に魂が宿る」とは、地域を問わず古代社会における(ここでいう「魂」の観念を別にすれば)単純素朴な自然観であろうが、極めてアニミズム的な発想であれば「生きとし生けるもの」の枠組みをあっさり越え出るのではないか。つまり魂が宿るのは「ありとあらゆるもの」である。そこには有機物と無機物との境目さえ設けられない。

 

 こうした思想を持つものとして挙げられそうなものは何か。よく「仏教」が挙げられるが、それは甚だ表面的で「似非仏教学者的」な総論のように思えなくもない。それが原始仏教であろうが日本仏教であろうが、もともと衆生の概念と無機物の概念は仏教的な見方からも異なる。そこでは「無我」が教えに一貫性を付与しているだけであろう。しかもアニミズムの究極は唯物論や観念論ではなく、その折衷案のような物活論にほど近いコスモロジーである。もちろん、だからといってキリスト教やその他二つの聖書から出た宗教ではない、ということは一般には知られている。とはいえ新説も多々ある。しかし既存の教義からは認められない。

 

 では何か。古代社会を背景とするならば、ここにはどうやら「古神道」が当てはまりそうである。「道教」はどうか、タオイズムとアニミズム。但し、そこまでいくと、もう対話にはならぬであろう。それらにとって曖昧さこそ内容の豊饒さなのだから、文字通り「当てはまる」というだけである。それに民間信仰たる「道教」と老荘思想と呼ばれる「道家」とは、やはり分けて考えるのが賢明でり、一昔まえの呪術が医療行為の代用品になるのは望ましからぬことであろう(確かにそれも緊急事態に対する態度として有り得る選択かもしれないが)。

 

 教皇フランシスコは著した。
「すべての命を守るために」ここでも曖昧さがむしろ解りやすさとなっている。ウィルスが命であるのかないのか、という疑問以前に身近なテーマが扱われるわけだ。いうまでもなくその主題は人間存在である。「ウィルス」との「共存共栄」を唱える人はいない。というか、そのような人は「ウィルス」を環境とは考えない。しかし、ありのままの世界を捕らわれのない視点で観るならば、「ウィルスは善でも悪でもない」のは明らかである。だからウィルスとだけは「共存を望まない」という主張は、なにやら「蛇や白蟻は生物ではない」という都合のいい主張に聞こえてしまう。

 

 我々宗教者は「ウィルス」とどう向き合うか。重要なのは「人間が世界の中心かどうかという世界観の問題ではなく」、増してや梅原猛まがいの「キリスト教は人間中心的世界観であるがゆえ環境破壊を進める」という誤解によって生じる弊害を避けること。すぐに気づくが、これは、そういっている側も人間であるから結局は人間中心的世界観からみた、単に反対側からのキリスト教理解の露呈に終始し、結果的に具体的な意見は何もいっておらず批判だけの思考だ。環境問題の取り組みに一つのスケープゴートを設定するだけの詐欺的な提言といえる。

 

 既に述べたが「ウィルス」はいわば今や「人間を取り巻く環境」である。そして人間はある程度まで環境を破壊しながらでないと生きられない。しかしその人間である我々も「生きようとする意志」であるから、これは気をつけていながらも止められない。自然との調和とか「共存共栄」というのは何と容易いことか。だから「ウィルス」は欲せずも環境を破壊しながらでないと生きられない人類が絶えず新型を生み出してしまうことになるという点で「環境破壊に起因する更に都合の悪い環境」なのである。

 

 ところで、この度の「新型コロナウィルス」は全体として自然物と言い切れない側面が一部観察者から指摘されているらしい。だとしたらこれ(新型コロナウィルス)は、まさに「罪」と「悪」との結合ではないのか。そうでないとしても先述の通り人間は他の破壊によってみずからが生き延びるしかない悲しい存在でもある。悲劇はいつも自然災害に加わる人災で二重苦を強いられる。今回もなんとなく(毎回そうかもしれないが)日を追うごとにそのような現実が露にされてきそうである。

 

 さて、共に生きることが出来ない相手、しかし、生きている限り付いて回るもの。それを我々は普段「死」と呼んでいる。キリスト教の伝統的な教義からは「死」は「罪」をその素とされる。総じていえば、これを機とした諸宗教対話の可能性があるならば、それは「ウィルス」をどうみるにしてもコスモロジーの比較を論じるものとはなり難い。従って、「アニミズム」や「タオイズム」からは視点や方策は期待できるが、やはり実践において対話の甲斐は各自の志に委ねられよう。

 

 「だいたい諸宗教対話などというものが何を求めるにしても非実践的だ」という人もおり、それに与するわけではなかろうが「観念の遊戯」に開き直る向きもある。しかしながら、政治、経済、文化、医療、それら全てが元を辿れば宗教的な領域なのではなかったか。

 

 無論、宗教政党が正しいとは全く思わない。但し中東を見ても分かる通り本来それは人間の生き方に根ざしている。だから問題が起きるのはその政党に何がしかの問題が隠れているからだといわざるを得ない。また、非人間的な発想も長続きはせず、後世の人に潤いを提供する文化形成となり得ない。

 

 然るに今ここでは謙虚に事態の終息を願いつつ、目前の現状からそれぞれの生命観に立脚し、その信仰から浮かび上がる「苦しみ」と「救い」のかたちをお互いに並べてみることが重要である。本来、信仰とはどのようなものであれ、人間の歩むべき見通しを提示することを期待されているのだから。