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死者の月に思う

加藤 豊

 

11月中は「死者の月」、そして「死」と「復活」とは、わたしたちの信仰の中心となるなテーマです。あまり個人的な話はしたくないのですが、体験に基づかない教話でないとなかなか血の通ったものとは成りにくいと思います。

 

その意味で今、みずからのことを振り返りますならば数年前に亡くなった母の死のことが即座に浮かんでまいります。わたしはまことに親不孝な息子でありましたが、母自身はどのような人であったかといえば、生前、元気な頃はいつもわたしとぶつかってばかりで、わたしとだけならまだしも、親戚中から身内の「和」を乱すトラブルメーカーとして疎んじられていました。

 

そもそも、こんな紹介は母にとって不名誉なもので、それを躊躇わず書いてしまうわたしは今でも充分親不孝者ですが、事実は事実です。実際、感情的で絶えず気分にムラがあった母が真正面から息子のいうことに耳を傾けてくれたのはわたしが司祭になった後からで、その傾向が顕著になってきたのは死を間近にした数ヶ月前からのことでした。これはもうどんなにあがいても仕方のないことですからね。

 

隠しきれない人柄が表れ、いえなかった本音が明かされます。つまり人と人とが真面目に冷静にまともな会話ができるようになるわけです。そしてお互いに気付かされるのです。はじめからこうしておけばよかったと。

 

実はこの記事を挙げる数日前、先輩司祭と夕食をご一緒したのですが、そこでの話題はやはり、亡くなった司祭たちのことです。しかし、亡くなったとはいえ、それでも現役の司祭団になんらかの形で今でも影響を与え続けていて、誤解を恐れずにいえばいやが上にも(つまり好むと好まざるとに関わらずといいましょうか?)わたしたちの間で生きているのです。

 

死者の月である11月中、私達は単に祭日、主日をお祝いするだけに留まらず、今もわたしたちの間で生きている人たちと共に過ごせれば、それは生きているわたしたちにも、亡くなった方々にも幸いなことではないでしょうか?