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番外編(欲望の助長か、心の平安か、視点の転換のために)

加藤 豊

 

どんなものであれ、「宗教なんて弱い人間が好むものだよ」という話を聞くことがあります。わたしは「その通り」と答えるでしょう。ただし、そもそも人間って、皆、弱いのでは?ということを付け加えたいですが。もっとも、そういうことをいいたくなる人の気持ちもわかります。現代日本社会において「宗教」という言葉のイメージは特殊です。そうなるに至った数々の良くない事例もあります。

 

さて、一神教的文化か多神教的かという硬直した文化評論をやめ、違った視点で物事を見てみましょう。

 

なんでも自分の思い通りになりそうだから、つまりメリットがあるから信じる、という信仰態度と、一定の価値観から充実した人生を送るために道を学び、身に付ける、という信仰態度との間には大きな断絶があります。当然そうなりますよね。方やエゴイズムの助長を奨励し、方や平和な生き方を求めるものに幸あれとなるのですから。

 

大概、健全な教団であれば、「感謝の心」について教化し、超能力に興味など示しません。もちろん、わたしはカトリック信者ですから奇跡も信じますが、それは希望に属する領域で人間の度はずれに自分の力を過信して限界を踏み外すことを思えば、そのときに起こりがちな悲劇を忘れないためでもあります。

 

朝は昇る太陽に感謝し、夜は照らす月に感謝し、出会う人にはお世話になっておりますと挨拶し、調和のとれた生活を送る人がいたとしましょう。それに対して怪しげな神がかりの人物を思い浮かべてみてください。どちらが宗教的態度といえるでしょうか?それに、前者の態度って(多神教世界観にありながら)一神教的なものがあるとわたしは思います。対象が多岐にわたっていても普遍的な一つのものを求めており、その態度に一貫性があるからです。

 

ときどき、あの神父さん(あるいは牧師さん)よりも、この神父さん(あるいは牧師さん)のほうがいい、とばかりに教会を転々とする人も(カトリック、プロテスタントを問わず)います。もちろん人それぞれに色々な事情があると思うので否定はしませんし、悪くいうつもりも毛頭ありません。神父や牧師に何か問題がある場合もあるでしょう。でも、これってなんだか多神教っぽくないでしょうか?

 

つまり信じる主体は信仰者なので、信仰が体現されている人物抜きに教義が「一神教」か「多神教」か、などと詮索するのは非実践的ということになるでしょう。

 

どちらの神様がご利益があるのか、という発想がどれほどまことの救いから遠いものであるのかということは、わたしたち司祭のみならず、ご住職や神官及び信徒代表者を務める方々には周知の事実なのです。なぜなら人間はみずからのエゴイズムによって苦しむのであり、救いは多くの場合、こうした囚われからの解放と同義語です。

 

現代日本社会では、今や宗教もサービス産業のようになってしまった感があり、格式張った伝統より、即効性が注目される世の中です。その風潮に乗って事業展開している類の教団も見られますが、またそれらの団体を梯子している人たちもいて、それが結果的に最後には心の平安に繋がればいいが、概ね不安が増すばかりのようです(見ていると)。

 

相変わらず、多神教とか、一神教とか、そういうものいいは止まないのでしょうけれど、それに踊らされて文化評論する人たちが不正確な情報を撒き散らしてしまうことも考慮されていいと思うのですが。