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今後の「諸宗教対話」は?(対話が困難なこの時期に)

加藤 豊 神父

 

 困った。対話できない。この状況では難しい。

 

 比較文化論のようなものを書いたとしても、その類の書籍は今は沢山出ており、アカデミックな観念の遊戯に過ぎぬだろう。

 

 神父が他宗教について知的に学び、その上でキリスト教とそれら他宗教との類似や違いについて語る機会は案外と多いだろうが、多くの場合、それは「対話」ではなく、その神父の研究結果の発表に終始してしまうことになる。それはそれで意味があるのだろうが、この紙面において、それはできるだけ避けたいことである。

 

 日本においては、教養として仏教を学ぶ神父は多く、それは知的な試みに留まらずに、仏教的修養法を自らの祈りに取り入れる人たちさえいるくらいである。しかし、近所のお寺さんにお伺いしてみる、ということはおそらくほとんどいないのではないか。

 

 最近では、各地の教会関係者の主催による研修会もあるが、そこに講師として呼ばれる人は、大概、わたしたちとの教義上の類似点や相違点の話が中心となる(つまり、その場に生身の仏教者がいるのとは違う)。だが、テーマに惹かれて集まる人々が本当に知りたいことは、例えば、お隣さんが、各々然々の信者なので、そういう人たちとどうやって付き合うのがいいか、とか、付き合う際のマナーとしては、冠婚葬祭を含めて、そういう仕方が失礼にならないのか、とか、総じていえば、要はその辺りのことである。

 

 比較文化論的な予備知識も、ないよりはあったほうがいい。だから、ここでは、それらの真ん中にあるものを注視したいと思っていたのだ。でも、それが出来ない。しかし、なんとかしたいと思ったわけだが、いま一番身近にいる他宗教との関わりがある人とは誰であろうか。それは入門者、洗礼志願者の皆さんであった。

 

 彼らの体験に耳を傾ける。そうすると色々なものが見えてくる。初めてキリスト教と出会ったのはいつであったか、また、教会に通うようになる以前は、キリスト教にはどういうイメージを持っていたのか、など。「教会」には「教える」という漢字が使われている。しかし、誰もが知っているように、「教える」だけでは教会ではない。「教会」は教えられ、学ぶことも使命としているはずだ。

 

 しかし、現実の教会では、何かが違う。もちろん、教会に入るには、人はそれを「知る」必要があろう。その意味で、講座は一種の習い事でもある。

 

 わたしは散々見てきた。「教える教会ではなく、共に歩む教会」というスローガンがある。その通りである。だが、それは改めていうことだろうか。この趣旨の事柄に最初から一方通行などはないだろう。共にいればどの道、共に学ぶことになる。大事なことは本心からそう思っているのかどうかだ。そういうスローガンを掲げる人には残念ながら矛盾が見て取れる。

 

 こうした内輪の論理における「教会のあり方」は入門者の皆さんにはあまり関係がない。しかもスローガンを語りたがる人が入門者に親切に対応しているかといえばそれも疑問でもある。

 

 「行って隣人になりなさい」というのと「さあ来い、隣人にしてやる」というのとは実に似て非なるものである。

 

 「誰が誰より上だとか、権威的な発想ではダメだ」と、権威的に語る。語る内容は正論だから、わたしも思う。しかし、そういっている人が往々にして一番威張っていたりする現象は、教会のみならず社会のあちこちに見られるであろう。そもそも本当に謙虚ならこの手の話題が上がればかなり注意深く切り出すはずだ。反体制を気取る体制側の厄介な事情は、受け狙いが目的に思えてしまうのは、わたしだけだろうか。

 

 この世の力を欲しがる人はそうなってしまう。他者より高く、他者より先に、他者より大きく、という基準。それが畢竟悪いとはいわないが、ただ、それが信仰に必要だろうか。

 

 そしてやがて時が経ち、教会も普通にそういうことに気づく。すると次にはなんだか奇妙なことが生じる。つまり革新的なセンスが一種の流行となってしまうと、短絡的な批判的態度が最先端なものになるのであるから、本質と無関係に新しい用語だけが一人歩きをする。

 

 だが「今日の最先端が明日には昨日のことになる」ことについて、概ね教会は疎いと思われる。わたしたちは、入門者、洗礼志願者の方々に対してどうであったか、と時々、考える。また、非キリスト者の関係各位の方々も施設などには沢山おり、その人たちとも付き合うことになっている(学校や幼稚園には未信者の職員の方々がいるのだ)。

 

 内輪では、どんなに進歩的に思える発想であれ、それが内輪の論理に過ぎない間は、非キリスト者にはあまり関係がない。

 

 「教会に来るまではキリスト教徒について、とても偏狭で排他的なイメージを持っていた」という人はけっこういたし、そういうテーマも以前にここで扱ったことはある。わたしたちの態度や視点は世の人々からいつも見られている。内側にいると時々それを忘れている状態で教会について語る。即ち「教会のなかから教会の未来を見る」ことをする。「地上の教会が」である。

 

 「対話」も「宣教」も相手のあることなのはいうまでもない。いくら高尚な論旨でもそれは内側の論理となると、いくら練りに練っても、庶民感覚からは返って遠くなるのではないか。ただ、それは内輪の人には「すごいですね」といわれるかもしれない。だから、より身近な事柄から思い起こしたい。

 

 とはいえ、本当にどうすればいいのか。自分が他宗教の人たちから「教えられ」「気づかされ」たことを書いたり、キリスト教徒である自分がそれを思い出しては、それを自分なりに回想する。ということなら、ここでの趣旨というか、主題からはそれほど外れないだろうし、振り返れば番外編のときは、かなりこだわりなく自由に書いていた。

 

 今後は(というより「対話が困難な」この時期)、経験談のごときものが増えてしまう傾向が強まるかもしれず、だが、そこは割り切ってその時々に思ったことや感じたことをまとめてみたいと考えた。