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パスカルを想う

加藤 豊 神父

 

 キリスト教徒でない人であってもブレーズ・パスカルを知っている人は多いと思う。例えば数学者、そして哲学者などはパスカルを通る。しかし、何といっても彼が注目されるのは、その信仰、その思想、そしてその「人間観」であろう。そのため、どんな分野で活躍している人であるかに関わらず、一種の一般教養という点から「パンセ」を読んだという人は沢山いるだろう。

 

 「パンセ」においてパスカルは書いている。

 

 「どの宗教にも二通りの人たち」。

 

 これは読んでいて耳が痛いところもある。しかし事実であろう。「神を愛する人」と「自分を愛する人」とをバッサリと分けている。実際この分け方をすることはできてしまう。しかし概念と実物とが必ずしも等しくはない。それゆえなかなか一眼ではわからず判断できない。情熱的なパスカルはいうまでもなく、ここでは後者への軽蔑を表すが、実際には人の心は一瞬一瞬で向きを変えることがある。

 

 後に異端として退けられたヤンセニズムのポールロワイヤルで、パスカルは在俗のまま修道士と変わらぬ生活をしていたというし、時代背景もさることながら、彼の持つ純粋さや透明性は普遍的なもので、人間形成とは無関係に自己実現のために宗教というものが利用される恐ろしさを彼は如実に感じていたはずである。だから強い表現が際立っている。例えば「わたしはデカルトをゆるさない」など。

 

 「どの宗教にも」といっても、この頃のパスカルにとってそれらはおもにイスラム教で、しかもパスカルが直にイスラム教徒との接触があったなどとは考えにくく、その他の諸宗教に関しても、修道院内の書庫に何があろうが、正確な資料といえるものだったのかどうかはわからない。それなのに「どの宗教にも二通りの人たち」という想定は想像に難くない。

 

 幸い(ということができようが)現代のカトリック教会は「包括主義」の立場を取る。しかもいまでは正統キリスト教会であれば、無闇に相手を力技で飲み込もうとするような意図は一部のキリスト教系カルト以外には皆無だといってもいい。

 

 1962年から1965年にかけて行われた第二ヴァティカン公会議(以下公会議)はカトリック信者でなくとも広く知られている。「家のなかで兄弟とだけ遊ばずに、お外で色々なお友達と遊んで来なさい」という「対話」の姿勢が全面に押し出された。しかし相変わらず子供達は「家のなか」から出かけようとはしないし、そうなる環境も整わない。むしろこの公会議を「古い家のリフォームだ」とばかりに、しなくてもいい工事をしたがる進歩的な人たちと、昔の家のほうがよかったという思いを募らせる復古的な人たちとに分かれたままにも思える。これまた概念からの分け方で、大概は一人の人のなかに割り切れないものが同居していると思われる。

 

 「お外のお友達」とはいうまでもなく、他宗教の人たちや、無宗教的立場の人たちに擬えた私的な比喩だ。そこで仲良くなるための第一歩が「自己紹介」だから、公会議では「教会の自己理解」が語られている。自己紹介もできずして、どうして友達を作れるだろう。一方的なロジックだけを展開するだけで、相手に耳を傾けないのでは、どう理解し合えるだろう。

 

 しかし、もし、それらを一つ残らずクリアしたとして本当に仲良くできるかどうかはわからないし、悲しいかなそうならなかったこともある。そこでふとパスカルを思い出した。

 

 パスカルがいうところの「どの宗教にも」いる、とされる「自分を愛する人たち」同士が相対しても対話が成立しないからである。とはいえ、これも無理もない、と思うことがある。人間は弱いものだし、皆が皆、「神を愛する人」ばかりの立派な教団などあるのか、屁理屈をこねていいならこんなことまで言えてしまう。「そもそも神を愛する自分をも神は愛する」と。

 

 然るに、対話の糸口として必要な要素はこれではないか、即ち、自分の人間的な弱さを認め、謙虚さと、相手への敬意を心がけること、また、どちらが優れた宗教なのかという「論争」と、理解し合おうとする「対話」とを混同してはならず、向かうところはひたむきな真理探究者たらんとする気持ちであろうし、特に日本社会においては今も昔も「論語読みの論語知らず」が一番軽蔑され、対話にならないであろう、ということ。

 

 崇高な宣教論がなぜ効果を発揮しにくいのかは、相手に「自己紹介」をするほどの当事者意識が欠けてしまうからではないだろうか。虚栄心や野心、傲慢や闘争心、自己顕示欲や名誉欲、それらから解放されているかどうかを見極める側も見られる側も当然意識する。つまり「対話」は容易なことではない。しかも「イエスがどのような存在であったかを既にある程度知られている」上で(それを前提として)相手はこちらを見るし、こちらの話を聞くことになる。およそ「他者」と対話しようとする者は、先ず「自己」と対話しなければならないために、「対話」を巡る教会の課題は大きいといわねばならない。

 

 なにやら、パスカルの真意が透かし読みできるように思えてきたのだが、それはいわばこういうことであろうかと推測する。「真の自分を愛そうとする者は、真に神を愛することができる」ということなのかと。