· 

「主の御復活はでっち上げだったのか?」

G .T.

 

 主イエスの御復活に関する初期キリスト者の証言に直面したとき、それが信頼できるものなのかどうか疑問に思われるのは自然なことだろうと思います。結局のところ、誰かが復活するのを見ることは、人間にとって日常的な経験ではないので、健全な懐疑心はそのような出来事の主張を検証することを要求するでしょう。

 

 そのための一つの方法は、「代替説明」を提供することです。そのような代替説明の一例として、「陰謀論」があります。即ち、初期キリスト者が遺体を盗み、復活の物語をでっち上げたと主張することで、キリストの空のお墓と死後の出現を説明しようとしています。

 

 「初期キリスト者はこれをでっち上げたのか?」という質問は、素直で率直な探究心に基づいて尋ねるのが自然で理解できることだと思います。そして私は、彼らがそうしなかったと主張したいのです。そう考えるにはいくつかの正当な理由の中で、ここで2つを挙げてみたいと思います。

 

「使徒的ジレンマ」

 

 第一に、初期キリスト者は、主イエスの御復活についてウソをつくことで得るものは全く何もなく、失うものはすべてありました。このような危うい状況に陥っている人ほど、最も信頼できる証人がいないと思います。

 

 聖パウロはこれを理解していたのでしょう。パウロはこの事実を用いて初期キリスト者の証言の信憑性を主張し、「コリントの信徒への手紙」でその主張を二つのジレンマの形で提示しています。

 

「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であり、あなたがたの信仰も無駄になります。それどころか、私たちは神について偽証した者ということになります。なぜなら、本当に死者が復活しないのなら、神が実際には復活させなかったキリストを、復活させたと言って、神に反して証言したことになるからです」(コリント①15章14~15節)。

 

 パウロは、もし自分や他の証人たちが神を信じているならば、主イエスの御復活を宣言する際に「偽りの証言をすることになる」と論じていることに注目してください。初期キリスト者は、アブラハム、イサク、ヤコブの神を信じながら、ウソをつくことで何を得ることができたのでしょうか。 天罰ほかならないでしょう。初期キリスト者が、自分たちの永遠の救いはそのようなウソのために危険を冒す価値があると信じていたと考えるのは、道理にかなっているのでしょうか。

 

 パウロは更にもう一つのジレンマを提示し、こう説明しています。「この世にあって、キリストに単なる望みをかけているだけなら、私たちは、すべての人の中で最も哀れな者となります。…また、なぜ私たちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、私たちの主キリスト・イエスにあって私が持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、私は日々死んでいます。エフェソで獣と闘ったことがただ人間的なことにすぎないのなら、私に何の益になるでしょう。死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしよう/どうせ明日は死ぬのだから』ということになります」(同19節、30~32節)。

 

 パウロは、もし彼らが不信者であり、神や御復活を信じていなかったとしたら、そのウソから何を得ることができるかを考えているようです。もしこの世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、もし単に人間的な動機からエフェソで野獣と戦ったとしたら、そのようなウソから得られるものは、迫害と死以外に何もないということです。パウロにとって、それが報酬であるならば、どうせ明日死ぬのだから、食べて飲んだ方がいいだろうと訴えているのでしょう。

 

女たちの証言

 

 初期キリスト者は御復活のことをでっち上げていない、と考える二つ目の理由は、最初の証人として女たちを含めたことです。

 

 歴史学者が歴史性を検証するために用いる多くの基準の一つに、いわゆる「ばつの悪さ」という基準があると言われます。これは、初期キリスト者がばつが悪く、訴求性がないと思った行動や言動を指します。そのような情報は福音書の目的を損なうので、福音書を書いた人たちはそのような情報を入れたがらないでしょう。御復活の最初の証人が女たちであることは、そのような基準に合致しています。なぜなら、1世紀のユダヤ教(または1世紀パレスチナの族長制社会の性質)では、女たちの証言は法廷では認められないとされていたからです。

 

 もし女たちの証言が法廷で信用されないとしたら、使徒たちは、空のお墓と復活されたキリストの出現の真実について人々を納得させるために女たちの証言を使うことはなかっただろうと思われます。もし福音書の記者たちは主イエスが復活されたという話をでっち上げて、他の人を納得させようとするなら、最初の証人としてペトロやヨハネ、またはアンドレなど男の弟子たち、あるいはアリマテアのヨセフやニコデモのような男の人物を空のお墓の発見者として主演させただろうと、結論付ける方が合理的でしょう。

 

 それなのに福音書は、男の弟子たちが恐れでおびえ隠れていた間に、空のお墓を初めて発見した証人は女たちだったと記録しています。なぜ福音記者たちは男の弟子たちを臆病者として描き、女たちに主な証人という「役割」を与えたのでしょうか。名指しのこれらの中の一人(マグダラのマリヤ)は、以前は7つの悪霊に取りつかれていたと言われていて、そのため多くの人の目にはより信用できない証人として見えたでしょう。それなのに、このような証明できる不利な条件にもかかわらず、初期キリスト者は、空のお墓の最初の証人は、実際に女たちだったと言い張りました。

 

 空のお墓の最初の証人が女たちだったというこの主張に関する最もらしい説明は、初期キリスト者は、当惑させる可能性のあることにもかかわらず、真実である主の御復活についてウソをつきたくなかったからなのではないでしょうか。人は、自分が知っているウソのために死ぬことはありません。また、ウソつきは意図的に、信頼できない証言を使用して、でっち上げの話を聴衆に納得させることもないのです。

 

 この復活祭では、キリスト者は復活された主イエスへの信仰が、ウソに基づくものではないことを確信することができます。では、おそらく、本当の質問は「イエスの復活に関するこの記述は真実なのか」ではなく、「主イエスの御復活に関するこの真実をどうすればよいか」ということでしょう。

 

 主の御復活、おめでとうございます!アレルヤ!