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悲しみや苦しみからの「嘆きの祈り」

G.T.

 

 今でもはっきり覚えています――小学5年生の時、仲良しのクラスメートとそのご両親が、小児がんで亡くなった彼のお姉さんの葬儀で号泣していたときのことと、数か月後、小児がんで右脚を切断されて病院のベッド上で、震えながら、むせび泣いていたサッカー部の元チームメートを抱きしめていた時のことです。

 それが、生まれてから初めて、心の中で「なぜ」と泣き叫びながら、内面的に感じていた悲しみによる涙を流した時だった、と思います。当時の教会学校の一人のシスターに、なぜ神様に愛されている子供たちにそんなことが起こるのか、と尋ねた覚えがあるのですが、多分シスターの答えがよく理解できなかったので、何と言われたか覚えていません。

 私たち皆、無数の喜怒哀楽を通して生涯を送っています。恵まれていると感じたとき、良いことや成就を経験したとき、神様に賛美と感謝を捧げます。しかし、混沌や困惑、悲しみや苦しみ、死の存在、あるいは人間の脆弱性や無力さに対する感覚によって圧倒されたときには、私たちはどのように祈ればよいでしょうか。

 聖書には、悲しみや苦しみの中に捧げる嘆きの祈りの場面が多くあり、そのような状況でも、私たちは神様に向かって、心のこもった嘆きの祈りを捧げることができる、と教えてくれています。

 詩編の3分の1以上(50編以上)は嘆きの歌ですー「主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。わが主よ、私の声を聞いてください。嘆き祈る声に耳を傾けてください」(130・1~2)。


 嘆きはヨブ記にも頻繁に出てきますー「なぜ、私は胎の中で死ななかったのか。腹から出て、息絶えなかったのか」(ヨブ記3・11)。


 また、神様に選ばれた預言者たちも、エレミヤのように神に向かって嘆き叫びますー「なぜ、私の痛みはいつまでも続き/私の傷は治らず、癒えることを拒むのでしょうか」(エレミヤ15・18)。


 5つの章で構成される『哀歌』の書は全体で、バビロニア人によるエルサレムの破壊の後に感じられた痛みと苦しみを表現しています。

  新約聖書にも同じようなことが書かれています。苦しんでいる人たちは、主イエスに助けを求めて叫びます。盲目の乞食バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫びます(マルコ10・47)。

 

 何よりも、主イエスご自身はゲツセマネの園で御父に向かって嘆いています―「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください」 (マルコ14・36)。


 十字架の上での苦しみの中で、主イエスは、「わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか」と詩編22編の言葉をご自分のものにされています。

 非常に悲しいことに、今日、私たちは多くの不幸が起きている痛々しいご時世を生きています。あまりにも多くの命が新型コロナウイルスの世界的大感染に取られています。家族の死別、生計は失われ、飢餓は数多くの人々を脅かしています。

 私たちは世界が変わったと感じており、また、将来がどうなるかについて、予期的な悲嘆を感じています。社会全体としての一般的な安全意識が失われ、ミクロとマクロの両方のレベルで悲嘆しています。

 しかし、神様は、ご自身の御言葉(聖書)の中で、私たちの悲しみのための空間をお作りになってくださり、私たちが「こんなはずじゃない」と嘆き、泣き叫ぶことができるようにしてくださいます。主は、苦しみの中の私たちに寄り添ってくださいます―「主は心の打ち砕かれた者に寄り添い/霊の砕かれた者を救い出す」(詩編34・19)。

 『哀歌』の書には、神様の民の悲嘆、孤立の苦しみ、飢えの現実、疑問、不安について書いています。これらが今日の私たちの現実ではないでしょうか。哀歌は、私たちの泣き、痛みや苦しみを表すために必要な空間を示してくれます。「立って、夜回りの始まる時に叫べ。主の前で、心を水のように注ぎ出せ・・・」(哀歌2・19)。嘆きは祈りの一部であり、「主の御前」で泣くのは非霊的なことではなく、弱さの表れでもありません。

 聖書の嘆きは、直接神様に向けられているのです。私たちは神様に直接泣き叫び、心のこもった質問をし、嘆きの祈りを捧げます―「いつまでですか、主よ。私をとこしえにお忘れになるのですか」(詩編13・2)、「主よ、なぜあなたは遠く立ち、苦難の時に身を隠されるのですか」(詩編10・1)、「なぜ、いつまでも私たちを思い出さず、これほど長く捨てておかれるのですか」(哀歌5・20)。

 病のとき―「私は病み衰えています。主よ、癒やしてください」(詩編6・3)、孤独と疎外感の中―「愛する者も友も病の私から離れて立ち、親戚の者も遠くに立ちました」(詩編38・12)、他者による危害と虐げを受けるとき―「わが神、主よ、・・・迫り来るすべての者から私を救い、助け出してください」(詩編7・2)、年老いていくときでも―「年老いた時、私を見捨てず・・・」(詩編71・9)。

 ほとんどすべての聖書の嘆きの祈りは、主への賛美に転じて終わります。祈りの立場から見れば、その意味は明白に思えます。私たちが嘆き悲しみ、痛みや否定的な感情に向き合い、それを表現し、すべてを吐き出した後にこそ、癒しが始まるのではないでしょうか。より神学的な表現を借れば、死と向き合い、それを経験することによってのみ、私たちは新たな生命、復活を得ることができる、のです。

 嘆きの祈りは悲しみや苦しみの中から始まり、神様による回復を待ち望みながら、主の最善への切望の中に終わります。私たちは、神様の御前に入り、私たちの個人的、集団的な悲嘆を主へ表すよう教えられています。

 しかし、それはそれで終わりではなく、私たちは希望を持っていない者として悲嘆するのではありません。私たちの悲しみや苦しみには意味があり、主を待ち望んでいる間に得られる教訓と成長があるのです。

 私たちは主の御前で泣きます。そして、王の王、主の主である主イエスが共におられることを私たちが知っています―「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイ5・4)