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「聖性」の始まりは「神の創造物である自分」を愛すること

ガブリエル・タン

 

 初めて聖人に関する本を読んだのは、堅信を授かった12歳の頃でした。父からお祝いにプレゼントしてくれた様々な聖人についての短い紹介集でしたが、読み始めると、とても興味をひかれ、それ以来、様々な聖人に関する本をより深く読むようになりました。

 
 様々な聖人のことについて、また聖人から学ぶようになるにつれ、彼らの個性や経歴はそれぞれ大きく異なるものの、神様への忠実な愛、そして隣人を愛する姿勢がとても似ていることがわかりました。教皇フランシスコが次のように美しく表現されています。


 「聖人たちは、光が異なる色合いで入ることができる教会の(ステンドグラスの)窓に例えることができます。彼らは、神の光を心の中に迎え入れ、それぞれの「色相」に従って、世に伝えています。しかし、彼らは皆透明で、神様の穏やかな光が通り抜けられるように、罪の汚れと闇を取り除くために、力を尽くして、努力していました」(2017年11月1日、「お告げの祈り(日曜・祭日正午の祈り)」での講和)。

      

 以前にこのコラムで教会の典礼暦について、分かち合わせていただいたことがありますが(「日日好日」―典礼暦年を生きる)、聖人たちは、また、私が典礼暦が大好きな理由の1つです。神聖な点呼のように―例えば、ある日は幼きイエスの聖テレジア、次にアシジの聖フランシスコ、その次に、アヴィラの聖テレジア、聖イグナチオ(アンチオケ)、聖ヨハネ・パオロ二世教皇など―異なる個性や経歴を持った聖なる大先輩たちは、次々と行進して通り過ぎていき、私たちはついに「諸聖人の祭日」(11月1日)にたどり着きます。

 

 この日には教会の歴史上の列聖された聖人たちだけでなく、天国にいる数多くの無名の聖人や、日常生活の中で神様の光を輝かせている普通の善良な人々も、含まれています。このように、聖徒の栄光ある交わりは、私たちと共に祈り、私たちのために祈ってくれる膨大な数の信仰の同伴者を与えてくれています。

 

 「カトリック教会のカテキズム」は、「『どのような身分と地位にあっても、すべてのキリスト信者がキリスト教の生活の完成と完全な愛に至るよう召されています』。すべての人が聖性へと召されています」(2013項)と教えてくれています。つまり、私たち全員が例外なく、聖人になるように招かれているのですが、教皇フランシスコが次のように述べられています。

 

 「私たちはしばしば、聖性とは、日常の事柄から身を引き、多くの時間を祈りに費やすことができる人だけのものであると考えがちです。そうではないのです。私たちは皆、どこにいても、愛をもって生活し、すべてのことにおいて、証しすることによって、聖なる者となるように招かれているのです」(2018年3月19日、使徒的勧告「喜びに喜べ――現代世界における聖性」)。

 

 確かに、私自身もかつて「多くの時間を祈りに費やすことができない自分には、どうすれば聖性に至ることができるのか」と思ったことがありますが、故トーマス・マートン(アメリカのトラピスト修道会司祭、作家)が次のように言っています。


 「私にとって、聖なる者となることは、自分自身になることを意味する」(著書「観想の種」より)。この言葉に出会った時、とても深い感銘を受け、徐々に正しい認識を持つことに導かれるようになりました。


 言い換えれば、「聖なる者になるためには、まず自分自身になることから始まるのだ」ということです。私たちはしばしば、他の人の聖性の解釈に基づいて、自分がそうではない誰かになろうとしていることに気が付くかもしれません。そのため、自分自身が聖なる者になることができるとは、信じがたいことなのではないでしょうか。


 「自分自身になること」という理解の核心は、神様の御前に、自分が何者であるかを受け入れることです。


 「まことにあなたは私のはらわたを造り/母の胎内で私を編み上げた。あなたに感謝します。/私は畏れ多いほどに/驚くべきものに造り上げられた」と詩編(139・13-14)があります。


 聖性の始まりは、神様の創造物である自分を愛することだと思います。それは、自分自身のすべてを意味します。自分の中にあって欲しくないと思う部分さえも、神様がお創りにならなかったらよかった、と思う部分さえも、自分が嘆いている部分さえも含まれています。

 

 私たちの創り主である神様は、私たちの弱さや,苦労したり、挫折したりしているところを含め、私たちのすべてを愛しておられます。往々にして、これらの弱さこそが、聖性に至る最も重要な道なのではないかと思います。なぜなら、私たちの弱さこそ、私たちが完全に神様に依存していることを思い出させてくれるからです。

 

 神様が私自分自身になることを望まれると信じることは、私にとって素晴らしい解放感を与えてくれた気がしました。私は常に霊的に成長するように召されているのですが、神様はどのような状況でも、私自分自身になることだけを求めておられます。そのため、友人の悩みを聞いたり、苦しんでいる人や困っている人に出会ったりするときに、「アシジの聖フランシスコや聖クララ、ロヨラの聖イグナチオなら、どうするだろう」と問う必要はありません。

 

 確かに、偉大な聖人たちは、私にとってキリスト者としての行動の模範となることができます。しかし、神様はその特定の状況に彼らを置かれたのではありません。主はご自分の神秘的な知恵により、私に与えてくださった能力と技術、そして私の弱点と限界をもって、私をそのような状況に置かれたのです。従って、より良い問いは、「神様の子供であり、キリスト者である私が何をすべきか」ということではないでしょうか。

 

 小さな一歩一歩を踏み出し、聖性の小さな振る舞いをしていきましょう。聖徒たちの交わりの中で、キリストの光が、私たち一人ひとりを通して、無数の色で輝きますように。