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使徒パウロとオリンピック

G.T.

 

 子供の頃から、4年に一度開催される夏季オリンピックを見るのが大好きです。個人的に好きなスポーツの個別の世界大会を見るのも好きですが、世界中のトップアスリートたちが集まって一斉に競い合う数多くの競技をたくさん見ることができるのは、オリンピックだけです。

 

懸命に頑張る選手の姿にパウロを重ね合わせる

 

 アスリートたちが皆全力を尽くし、世界トップレベルの身体と運動能力や精神的な強さを最大限に発揮し、最高のパフォーマンスや技術を披露していく姿には、いつも心を動かされ、感動を受けています。

 

 東京2020オリンピックも2年前から、大いに楽しみにしていましたが、とても残念なことに世間の賛否両論の中で、コロナ禍の暗黒の闇に覆われた無観客の大会となってしまいました。アスリートたちにとっても、このような未曾有の状況において、これほど精神的な強さが大いに試される大会はないのではなかろうか、と思います。

 

 しかし、このような状況でも開催された以上、彼らはひたすら目標に集中して頑張って行かなければなりません。努力に満ちた長い歳月を経てここまで誠実に辿り着いた世界中のアスリートたちは、どのような逆境に直面したか、どれほどの艱難辛苦に耐え、どれほど精神的に試され、乗り越えてきたかは、本人たち自分自身のみ知ることです。

 

 そのようなわけで、オリンピックで懸命に頑張っている多くのアスリートたちの姿を見ると、いつも使徒パウロの教えを思い出され、改めて反省し、学ばせてもらっています。

 

パウロは陸上競技を例えに使っている

 

 使徒パウロは、いくつかの書簡の中で、何度も陸上競技の世界の比喩を使っています。3つの書簡では、全力で走るイメージを用いて、霊的な成長と奉仕の活発で合法的な追求を促しています。また、自分の成長と奉仕について、4回も、そのような走りに例えて語っています。

 

 紀元前776まで遡るオリンピックは、運動能力、練習や鍛錬、および競争力の頂点を表しています。パウロはもちろん古代オリンピックのことを知っていましたし、オリンピックの前後の2年に一度のコリントス地峡で開催される「イストミア大祭(競技会)」(古代ギリシア四大競技会の一つ)もよく知っているはずなのです。

 

 そのため、霊的に豊かに恵まれてはいますが未熟なコリントの信者たちに、パウロはこう書いています。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る人たちは、皆走っても、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(コリントの信徒への手紙1・9章24節)。

 

 パウロは、霊的成長に必要な規律ある努力を、アスリートがレースに勝者だけに与えられる賞を獲得するための努力に例えています。

 

 キリスト者としての成長は、勝手に起こるものではありません。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピの信徒への手紙2章13節)が、信者は、聖霊が教えることに従うために、責任を持って真剣に努力することで、神様に協力しなければなりません。「競技をする者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を手にすることはありません」(テモテへの手紙2・2章5節)。鍛錬を重ねた信者にとっての賞は、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞」(フィリピの信徒への手紙3章14節)です。神様は信者に何を求めておられるのでしょうか?それは、心と生き方において主イエス・キリストのようになることです(ローマの信徒への手紙8章28節~30節参照)。

 

そして私たちも…日々の鍛錬が必要

 

 私たち信者は、主キリストのようになるため、様々な試練や鍛錬を重ねることによって、心の中で神様の働きの現実を示していると思います。アスリートたちが競技のために日々鍛錬するように、私たちにも日々の鍛錬が必要なのだ、と使徒パウロが教えています。

 

 「ヘブライ人への手紙」にこう記されています。「…すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。この方は、ご自分の前にある喜びのゆえに、恥をもいとわないで、十字架を忍び、神の王座の右にお座りになったのです。あなたがたは、気力を失い、弱り果ててしまわないように、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを、よく考えなさい」(12章1節~3節)。

 

 主イエスを最も優れた走者として描いています―走りのペースをお決めになり、私たちの模範であり、人生のレースのヒーローとして…。オリンピックのアスリートたちが自分の走りを妨げるものを排除しなければならないように、私たちも主の憐れみと御力によって罪から自らを解き放たなければなりません。アスリートたちがどんな状況の中でも目をそらさず、ゴールを見続けなければならないように、私たちも主イエス・キリストとその喜びの御報いを見続けなければなりません。


 そして、私たちがこの世の人生の終わり、レースの終わりを迎える時、聖パウロが言うように、「私は、闘いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(テモテへの手紙2・4章7節)と宣言することができますように。