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善きサマリア人のたとえ話―「忙しさは心を亡くす」

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「善きサマリア人」の実験

 

 インターネットのお陰で、世界各地から無限と言っていいほど多くの情報や知識を、素早く、簡単に入手できるようになりました。その中には、「今」だけではなく、遠い昔の情報や出来事などの情報もたくさんあり、「そんなことがあったのか」と驚いたり、勉強になったりすることもしばしばです。

 

 先日、 仕事の関係で米紙ニューヨークタイムズの記事を検索していると、半世紀ほど前の興味深い記事に出会いました。プリンストン大学の2人の心理学者が「善きサマリア人のたとえ話」(ルカ福音書10章25節~37節)をヒントに、神学部の学生を対象に行った実験に関する1971年4月10日付けの記事です。

 

 実験で、心理学者たちは、学生たちに「牧師とは、どのような使命や仕事が関係しているか」について5分程度の話をするよう求め、うち半数には、「善きサマリア人のたとえ」を話の中に取り入れるように、残りの半数にはそうした条件を付けませんでした。

 

 狙いは、「宗教的な問題や人を助けることを考えることは、実際に困っている人を見た時の行動に影響を与えるか」を解明することにあり、具体的には、学生たちに、決まった時間にキャンパスの反対側にある別の建物で話をすることを義務付け、そこに行く途中で、明らかに苦しそうにうずくまり、うめき声を上げる人に出くわすようにしました。さらに、学生たちを3グループに分け、Aグループの学生には「時間はたっぷりある。急ぐ必要はない」、Bグループの学生には「もうすぐ始まるから少し急がないといけない」、Cグループの学生には「遅刻してしまったので急ぐように」と条件を付けたのです。

 

 実験の結果明らかになったのは、「たとえ話を取り入れるように」と言われた学生たちでさえ、苦しんでいる人に出会っても、時間に余裕が無い場合、立ち止って助けようとはしなかったこと。その人をまたいで行ってしまったケースもいつくかありました。

 

 苦しんでいる人の出会った学生たちの判断に、はっきりと影響を与えたのは、「時間」のようでした。時間に余裕のある学生は人を助けるために立ち止まる可能性が高いことが分かったのです。

 

善きサマリア人のたとえ話

 

 「善きサマリア人のたとえ話」では、追剥に襲われて瀕死の状態で倒れていた人は 「エルサレムからエリコに下って行く途中 」(ルカ福音書10章30節)でした。祭司とレビ人はなぜ彼を助けなかったのか、その理由は書かれていません。神殿で奉仕するためにエルサレムに向かっていた、あるいは他に何か急ぎの重要な仕事をしに行く途中だったのかもしれません。

 

 倒れている人が死んでいるかどうか、知るためには、彼の体に触れねばなりません。体に触れれば、不浄な状態になってしまい、神殿で奉仕できなくなる。穢れを消すには7日間かかり、職務を全うしようとしても手遅れです。他に急ぎの仕事をしに行く場合も、倒れた人の介抱に時間を掛けることは大きなマイナスになる、と考えたかもしれません。

 

 祭司とレビ人は宗教家であり、神殿で神に奉仕しようとエルサレムに向かっていたが、プリンストン大学の神学生たちの多くと同じ選択をしてしまいました。瀕死の状態で倒れていた人の横を通り過ぎました。永遠の命に入るために、神殿で奉仕することを優先にしたためでした。

 

 主イエスはこのたとえ話を、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができる」(ルカ福音書10章25節)という質問と、結びつけて語っておられます。弟子も、私たちも、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、神である主を愛し、また、隣人を自分のように愛しなさい」という二重の教えを与えられているのです。

 

 この言葉は、旧約聖書の申命記6章5節とレビ記19章18節からの引用で、この教えを、ユダヤ人たちは熟知していましたが、階層と順序があったと頑なに解釈していたようです。すなわち、最優先すべきは「神」であり、「隣人愛」はその次だ、というわけです。イエスは、当時一般的であったこのような解釈を正す必要があるとお考えになり、「善きサマリア人のたとえ」を語られたのではないでしょうか。

 

 主は、このことをマタイ福音書25章31節~46節で明確にされます―人の子が終末にご自分の栄光の王座に着かれ、ご自分のことを気にかけることがなかった人たちを裁かれています。

 

 その人たちは、「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、よその人であったり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お仕えしなかったでしょうか」と聞きます。主はお答えになります―「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである」(同45節)。

 

助けが必要な人に仕えるとき、私たちは主に仕える

 

 「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています。」(マルコ福音書12章33節)

 

 私たちの愛や助けが必要な隣人、兄弟姉妹に仕えるとき、主イエス・キリストに仕えるのです。この律法の2つの部分の間には、分離や階層はなく、それぞれが他方に影響を与え、依存しているのです。両方がなければ、どちらかを持つことはできないのではないでしょうか。そして、私たちの救いはこの上にあるのです。

 

 確かに、私自身を含めて、様々なことで忙しく急いでいる日々を送る人も多いと思いますし、日頃の生活での優先順位と限界もあります。他の人を仕えるためにすべての時間を費やすことはできません。しかし、主イエスのご指摘は明確です。自分のことばかりにとらわれすぎて、困っている隣人を無視してはいけない、ということです。

 

「忙」は「心を亡くす」と書く

 

 ププリンストン大学で行われた「善きサマリア人」の実験の結果から、時間に追われたり、仕事で忙しかったりすると、心の余裕や隣人への思いやりを無くし、キリスト者の本来であるべき姿をも失わせることが分かった、と見ることができるでしょう。私自身、この実験結果から、いかに崇高な信条を掲げていても、仕事などに追われると、いとも簡単に、その信条から離れてしまう、人間の弱さを改めて思い知らされました。ご存じのように、「忙」という漢字は、「心」と「亡くす」からできています。「忙しい、と心を亡くす」ことのないように・・・ 自省を込めて。