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「ナアマン」から小さなことに忠実であることを学ぶ

G.T.

 

 先日の仕事の打ち合わせで、進行中のある業務に関連した幾つかの単純で些細な作業を行う必要性について議論がありました。多少の反対意見もありましたが、最終的には全体の業務に貢献し得る効果を鑑み、やはり進めることになりました。この些細な出来事から、小さなことについての意義をあらためて気付かされ、考えさせられました。


 「小さなこと」「些細なこと」をするかどうか、気に掛けるかどうかは、考えてみれば、しばしば個人的な価値観や都合、その都度の気分すらなど、様々な主観的な要素に左右されることも多いではないかと思います。このように、「小さい」と思うことを重要視せず、または無視し、「大きい」と思うことばかりに目を向けてしまう傾向があると思いますが、多くの場合、大きなことは、小さなことの巨大な累積効果によることを忘れてしまいがちです。

 

 実際、人間関係を含め、世の中のあらゆる物事や出来事は、様々な些細なことや小さなことの積み重ねによって成り立っているゆえに、小さなことの大切さを表現したことわざや名言―例えば「千丈の堤も蟻の穴から崩れる」「小さな漏れが大きな船を沈める」「九層の台も塁土より起こり」「千里の道も一歩から始まる」など―が古今東西で多く存在することは、広く知られていると思います。

 

 しかし何よりも、主イエスご自身が私たちに、「ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である」(ルカ福音書16章10節)とお教えくださっています。主の御教えに基づいて、聖アウグスティヌスは次のように言っています。「小さなことは(ただ)小さなことだが、小さなことに忠実であることは偉大なことです(拙訳*)」(聖アウグスティヌス著『キリスト教の教え』〈De Doctrina Christiana〉第4巻18章35節より)。(*ラテン語の原文― “Quod minimum, minimum est, sed in minimo fidelem esse, magnum est.”)

 

 それは簡単そうに聞こえるかもしれませんが、小さなことをするのに、とても難しい時がある、と思います。なぜなら、私たちはしばしば、小さなことが、愚かで、馬鹿げているように見えたり、何の役にも立たない、とすら思えたりするため、考慮することさえしないからです。

 

 おそらく、小さなことに忠実であるためには、大きな変化をもたらす稀有な力や勇気が必要なのかもしれません。旧約聖書の、預言者エリシャに重い皮膚病を癒されたナアマンの話(列王記下5章1節~15節参照)を思い出します。

 

 軍司令官であり勇士のナアマンは、患っていた重い皮膚病を癒してもらうために、預言者エリシャのところに行きましたが、エリシャが遣わした僕に「ヨルダン川で七度身を洗えば、体は元に戻り清くなる」と言われました。

 

 普通なら、不治の病を癒すためにそのような簡単なことをするだけでいいほど、幸せなことはない、と思われるでしょう。しかし、ナアマンはそうは思いませんでした。一国の軍司令官としての彼は、馬鹿にされていたような気持ちに満ち、憤って立ち去りました。

 

 「我がアラムの王は、私の皮膚病を治すために多くの金、銀、着物をイスラエルの王に贈ったのだ。なぜあの預言者が自ら出て来て、私の前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部に手をかざし、皮膚病を癒してくれないのか」(同11節参照)「なぜ私がわざわざそんなつまらないことをしないといけないのか」「それにしても、七度も同じことを繰り返さないといけないなんて、馬鹿馬鹿しいことだ」と。

 

 ナアマンはそのとき、そんな思いで一杯だったに違いないでしょう。しかしその後、ナアマンは、自分のプライドが病の癒しを妨げていることを家臣たちに気付かされ、イスラエルに戻り、言われた通り、ヨルダン川で七度身を洗い、完全に癒されました。

 

 ヨルダン川に魔法の水があったから、奇跡が働いたのではありません。ナアマンを癒したのは、「勇気を持って自分を低くする謙虚さ」、「理解できなくても信じようとする強い意志」、そして「自分の主観的な思いを重要視せず、些細なことに忠実」であったことだと思います。

 

 私たちが行う小さなことが重要です。小さなことが大きなことに繋がります。小さなことが力を与えてくれます。ナアマンの場合、彼は一度ヨルダン川に身を洗い、それから二度目、三度目、…そして七度目まで、ずっとしようと決めていたのです。

 

 聖書には、神様の慈しみの目は確かに、小さなこと、些細なことに向けられていることが多く記されています。これは単に、神様が私たちを愛されているからほかなりません。

 

 主は私たちをとても愛されているため、日常生活の中のごく小さなこと、ごく些細なことでさえ、主の御臨在が明かされているのです。そのため、小さなことに忠実であることは、大きなことに一貫性のない行動をすることよりも、はるかに価値があるのではないかと思います。

 

 主イエスは、「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ」(マタイ福音書18章3節~4節)とお教えくださっています。主イエスこそ、御自分の身をもって、数え切れないほど多くの小さなこと、些細なことに忠実であることの範を示してくださっています。

 

 そのため、聖パウロは私たちに、「言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。/何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」(コロサイの信徒への手紙3章17節、24節)と促しています。

 

 私たちがさらに成長し、主を愛するために行われる小さなことが聖なるものであると確信し、神様の御臨在の中でより一層深く生きることができますように。

 

 「よくやった。良い忠実な僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい」(マタイ福音書25章21節)。