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この世界で復活された主にお会いすること

G.T.

 

 主のご復活おめでとうございます。

 

私たちを圧倒する世界の出来事

 

 復活節の最中に、何だか暗そうな話に聞こえるかもしれませんが、最近の世界の出来事は、「死の威力が、いかに私たちを圧倒するか」を改めて認識させるものです。ウクライナでの戦争の報道を見ていると、私たちは無力感に襲われます。ブチャで、両手を後ろに縛られた男性、女性、青年たちや子どもたちの集団墓地が発見された、という報道は、私たちを激怒させると同時に、どうしたらいいのかと無力感を抱かせます。

 

 そして2年以上も続けてきたコロナ禍も、人種差別、政治的隔たり、無差別に物質の買い溜めをする傾向やそれに起因する紛争など、様々な人間の痛ましい側面を明らかにしました。私たちが生きている世界では、まるで「死」が優勢で最終決定権を持っているかのように感じることがあるでしょう。そして、各自が単に快適さを求めて生きることや、死から身を守ろうとする誘惑も芽生えるでしょう。

 

 主イエスの最初の弟子たちの経験も同じようなものだったのではないか、と思います。弟子たちは聖金曜日に目の当たりにしたり、知っていたりしたのは、彼らが期待していた「イスラエルに救いをもたらしてくださる方」の公共の場での恐るべき拷問と、痛ましく恥ずべき処刑でした。

 

「死」は勝たない

 

 最初のご復活の朝はすんなりと喜びの日ではなかったのです。「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません」(ヨハネ福音書20章2節)と、マグダラのマリアが苦悶の言葉を弟子たちに告げました。そして、弟子たちのペトロとヨハネが悲しみと恐怖にさいなまれながら、急いで愛する主の墓に走って行きましたが、亜麻布以外は何もなく、理解できませんでした(同9節)。

 

 また、マルコ福音書では、天使から主イエスがご復活されたことを告げ知らされた婦人たちも恐怖のあまり逃げ去り、そのことを「誰にも何も言わなかった」と記されています(マルコ福音書16章8節)。

 

 その後、弟子たちはたしかに集ってはいたのですが、おそらく「これからは、各自が自分の身は自分で守らねば」という気持ちで一杯だったのではないでしょうか。なぜなら、「私たちの世界は修復不可能なほど破壊されてしまったのだから」、「死が勝ったのだから」と。

 

 その日の夕方、鍵のかかったドアの向こう側で怯え、打ちひしがれた弟子たちは、輝くようになられた主イエスに割り込まれ、「あなたがたに平和があるように」と言われ、御自分の傷跡をお見せになり、御霊の息で彼らを暴力的な世界に送り返されました(ヨハネ福音書20節19節~23節)。弟子たちもまた変えられ、新たな勇気を与えられ、言葉や人種、国の境界を越えて語りかけ始めました。主イエスの愛、主の赦し、主の平安と約束が、弟子たちに真の喜びをもたらし、ご復活の証人となるためにすべてを賭けることを厭わないようにさせました。

 

心の中で復活された主、喜びに満ちたキリスト者になる

 

 今の復活節では、私たちも、おそらく最初の弟子たちのように、世界の悲劇に対する落胆や絶望感を抱えながら集っているのかもしれません。しかし、もし私たちがそうなろうと切に願うならば、また私たち一人一人が賜った可能性のすべてをもって、私たちも主のご復活の証人となれることでしょう。

 

 これは、決して、私たちの悲しみや絶望感を払拭するための「うわべだけの空想」ではありません。むしろ、主イエス・キリストが「私たちの心の中で復活され」、真の喜びに満ちたキリスト者に変えてくださる時だ、と思います。キリストが私たちの痛みと世の中の痛みにご自身の傷で触れられるとき、私たち自身が変化と希望の担い手として力を与えられます。

 

 このような苦渋に満ちた時期は、復活された主によって変えられた私たち一人一人が、希望と愛とご復活の御力への信仰をもって、主に与えられた各自のすべての可能性を活かしながら、できる範囲で、この疲れ果てた世界の傷に触れる機会なのではないでしょうか。

 

 そして、私たちもこの世界で復活された主イエスにお会いすることができるようになるでしょう。

 

 「あなたがたは、私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、よそ者であった時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に世話をし、牢にいた時に訪ねてくれたからだ」(マタイ福音書25章35節~36節)。