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主はお留守ではなく、もっと深く共におられる

G.T.

復活された主が、なぜ再び去られたのか

 

復活された主イエスが弟子たちに現れたあと、再び天に昇られたという出来事には、かつて戸惑いを覚えたことがあります。

 

せっかく十字架の死に打ち勝ち、復活され、弟子たちの前に姿を現してくださったのなら、そのままずっと地上にいてくださればよかったのではないか。私たちは、そう思ってしまうことがあるのではないでしょうか。

 

ヨハネ福音書20章の場面を読むたびに、マグダラのマリアの気持ちがリアルに伝わってきます。彼女は泣きながら、空の墓のそばに立っていた。そしてそこに現れた主イエスに気づいた時、どれほどの喜びだったでしょう。もう二度と離れたくない、もう失いたくない。そう思ったとしても、少しも不思議ではありません。

 

しかし、主は彼女に言われます。

「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(ヨハネ20・17)。そして、ご自分が御父のもとへ上ることを弟子たちに伝えるように命じられます。

 

この言葉は、マリアにとって簡単に受け入れられるものではなかっただろうと思います。目の前におられる復活の主を、ただそのまま引き留めておきたい。私なら、きっとそう感じたと思います。

 

主の昇天は、お別れではなく聖霊への道

 

けれども、主イエスはすでに弟子たちにこう言われていました。

「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ない」(ヨハネ16・7)。

 

つまり、主イエスの昇天は、単なるお別れではありませんでした。主が私たちから遠ざかるためではなく、聖霊を通して、より深く、より広く、すべての人のうちに生きて働かれるための出来事だったのだと思います。

 

それでも、正直に言えば、私たちは時々、この神秘を受け入れるのに苦しむのではないかと思います。

祈っても答えが見えないとき。苦しみの中で、神さまが遠く感じられるとき。聖堂にいても、心が乾いているように感じるとき。

「主よ、本当にあなたは共にいてくださるのですか」と問いかけたくなることがあります。

 

見えるものではなく、信仰によって歩む

 

そのような時、聖パウロの言葉が心に響きます。私たちは「見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」(②コリント5・7)のです。

 

聖パウロは、今の私たちの歩みが完全な「見ること」ではなく、「信じること」による歩みであることを教えています。私たちはまだ、主を顔と顔を合わせて見ているわけではありませんが、見えないから不在なのではありません。むしろ、見えないものを信じる中で、私たちの信仰は少しずつ深められていくのだと思います。

 

「見えるものによらず」―これこそ信仰の本質なのだと、パウロは教えてくれます。目に見えない神さまを、心の目で見ること。これは弱さではなく、信仰者としての成熟への招きなのだと。

 

使徒パウロはさらに、「体を住みかとしているかぎり、主から離れている」とも語りながら、それでも「主に喜ばれる者でありたい」と励ましてくれます(②コリント5・6−9)。この地上の歩みは、まだ完成された出会いではありません。しかし、その未完成の中でこそ、私たちは信仰によって主を見つめるよう招かれているのだと思います。

 

心に立ち返るなら、そこに主がおられる

 

教父聖アウグスティヌスが著書『告白』の中で、主イエスの昇天の意味について、こんなふうに書き残しています。

 

「主は私たちの目の前から去って行かれた。それは、私たちが自分の心に立ち返り、そこで主を見出すためである。主は去られた。しかし、見よ、主はここにおられる」(第4巻第12章)。

 

とても美しく心に残るこの言葉は、私にとってとても大切です。

 

かつて、ある聖職者が「イエスは今、教会をお留守にしている」と言っているのを聞いて、大変驚きました。おそらくその発言には特別な背景や意図があったのでしょうし、ここでそれを批判するつもりはありません。しかし、個人的には、そのような表現には到底賛同できません。

 

なぜなら、主イエスは「お留守」ではないと思うからです。確かに、復活された主は目に見える肉体の姿で、今この地上を歩いておられるわけではありません。しかし、主はそのご臨在を教会から消されたのではありません。むしろ、聖霊を通して、みことばのうちに、秘跡のうちに、教会の交わりのうちに、そして私たち一人ひとりの心の奥に、今も共に生きておられのです。

 

ミサ聖祭の中で出会う復活の主

 

特にミサ聖祭の中で、私はそのことを思わされます。

 

ご聖体を前にする時、私たちの目には小さなパンの形しか見えません。けれども、信仰の目で見るなら、そこに復活された主がおられます。ご聖体顕示の前で静かに祈る時も同じです。目で見えるものは静かです。何も劇的なことは起こらないように見えるかもしれませんが、その沈黙の中で、主は確かに私たちに出会ってくださいます。

 

主は、天に昇られたから遠くなったのではありません。むしろ、天に昇られたからこそ、聖霊によって、時と場所を超えて、私たちすべてに近くいてくださるのだと思います。

 

「わたしは主を見ました」

 

マグダラのマリアは、復活された主に出会ったあと、弟子たちのところへ行きました。そして、こう告げました。

 「わたしは主を見ました」(ヨハネ20・18)。

 

この言葉は、彼女の最後に記録された福音書の言葉でもあります。彼女は、以前と同じように主イエスを引き留めることはできませんでした。しかし、信仰の目で主を見ることを学んだのだと思います。

 

私たちも、いつも強い信仰を持てるわけではありません。神さまのご計画をすぐに理解できるわけでもありません。時には、「主よ、どうしてですか」と問いながら祈る日もあります。

 

それでも、主はおられます。

 

目に見えないから不在なのではありません。手で触れられないから遠いのでもありません。むしろ、復活され、昇天された主は、私たちの心のもっと深いところで、今も静かに働いてくださっているのだと思います。

 

今日も、主は共におられる

 

そのため、信仰が弱く感じられる日にも、私はこう祈りたいと思います。

 

主よ、あなたが見えない時にも、あなたを信じる心をください。

あなたが遠く感じられる時にも、私の心の中であなたを見いだす恵みをください。

目に見える安心だけを求める私を、信仰によって歩む者へと少しずつ変えてください。

 

そして、マグダラのマリアのように、私たちも日々の生活の中で静かに言えるようになりたいのです。

「わたしは主を見ました」。

 

今日のミサの中で。今日の祈りの中で。今日出会った人の優しさの中で。今日いただいた小さな慰めの中で。今日、赦す力をいただいたその瞬間に。

 

復活された主は、今も私たちと共におられます。主イエスは、教会をお留守にしておられるのではありません。私たちが心に立ち返るなら、そこに主はおられます。そして、信仰の目を開かれるなら、私たちもまた、マグダラのマリアと共にこう告げることができるのだと思います。

 

「わたしは主を見ました」。