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聖霊の火を静かに思い巡らして

G.T.

教会を生かす神の息吹

 

聖霊降臨の祭日を迎えるとき、私はいつも、この出来事の深さと広がりに新たに驚かされ、教会は人間の力で始まったのではない、ということを思い巡らします。

 

復活祭から50日間の「復活節」を歩み続け、その終わりに置かれたこの祭日は、単なる「教会の誕生日」という言葉では到底収まりきらない、救いの歴史全体を貫く壮大な出来事であることを、改めて感じています。教会は、復活された主が約束どおり聖霊を注いでくださったところから、いのちをもって歩み始めました。

 

五旬祭の日、使徒たちは一つの場所に集まっていました。そこへ「激しい風が吹いて来るような音」が天から起こり、「炎のような舌」が一人ひとりの上にとどまりました。そして彼らは聖霊に満たされ、さまざまな国の言葉で語り始めました(使徒言行録 2・1-4)。

 

この出来事を読むたびに、私は不思議な慰めを感じます。弟子たちは最初から強い人々だったわけではありません。恐れ、戸惑い、閉じこもっていた人々でした。けれども、聖霊が降ると、彼らは内側から変えられました。信仰とは、自分の力で強くなることではなく、神の息吹によって新しくされることなのだと思います。

 

復活された主イエスは、弟子たちに「平和があるように」と言われ、彼らに息を吹きかけられ、「聖霊を受けなさい」と言われました(ヨハネ 20・21–23)。この「息」は、創世記で神が人にいのちの息を吹き入れられた場面を思い起こさせます(創世記 2・7)。聖霊降臨は、単なる力の付与ではなく、神による再創造なのだと思います。

 

分裂をいやす聖霊

 

また、聖霊降臨は「バベルの塔」の傷をいやす出来事でもあります(創世記 11・1–9)。人間の高慢によって言葉が乱れ、人々が互いに離れていったあの傷を、聖霊は少しずついやし始めます。使徒たちの言葉を、さまざまな国の人々が自分の言葉として聞いたということは、神の愛が特定の民族や言葉に閉じ込められないことを示しています。聖霊は、分裂ではなく一致へ、孤立ではなく交わりへと導かれる方なのだと思います。

 

主は今も教会と共におられる

 

主イエスは、天に昇られた後も、教会を置き去りにされたのではありません。「父は別の弁護者を遣わし、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ 14・16)と約束されました。また、「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネ 16・7)とも言われました。目に見える形では離れて行かれたように見えても、主は聖霊によって、より深く、より親しく、教会の中にとどまってくださっているのだと思います。

 

教会は、聖霊の使命は御子の使命とは「共同のもので…分離されえません」と教えています(カトリック教会のカテキズム 689項)。聖霊が働かれるところには、キリストが共におられます。そしてキリストは、聖霊を通して、私たちを御父との交わりへと招き続けてくださいます。

 

愛の火としての聖霊

 

聖霊は、私たちにキリストのみ言葉を思い起こさせ(ヨハネ 14・26)、神の愛を心に注ぎ(ローマ 5・5)、弱い私たちのために執り成してくださいます(ローマ 8・26)。私たちがどう祈ればよいか分からないときにも、聖霊はすでに私たちの内で祈ってくださっている。そう思うと、信仰生活の不完全さの中にも、深い希望があると感じます。

 

聖霊降臨の祭日にあたる赤い祭服は、炎を思い起こさせます。その火は、恐ろしい裁きの火というより、私たちの内にある冷たさ、不信仰、自己中心を静かに清める愛の火です。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ 3・11)という洗礼者ヨハネの言葉は、今も私の心に向けられているように感じます。

 

 聖霊よ、私の内に来てください。

 閉じこもる心を開いてください。

 分裂ではなく一致を、恐れではなく信頼を、沈黙ではなく証しの勇気を与えてください。

 

聖霊降臨は、遠い昔の出来事ではありません。今も教会の中で、そして私たち一人ひとりの心の中で、復活の主が聖霊を注ぎ、新しく生かしてくださっている恵みの出来事なのだと思います。