「光あれ。」―主の公現の祭日を思い巡らす

G.T.

加藤神父監修

 

 私たちは創世記の中で、「光あれ」(1章3節)という神様の非常に権威に満ちた御言葉を聞きます。そして、ヨハネによる福音書の中で、主イエス・キリストは「私は世の光である」(8章12節)と、同じように深遠な御言葉でご自身のことを述べておられます。


 本日、私たちは「主の公現」という偉大な「光」の祭日を祝います。教会として、静寂な夜の闇に馬小屋の中でお生まれになった主イエス・キリストが、世の光であり、世のための真の光であることを思い出し、祝います。

 

 「公現」とは、文字通り、公に世に現れること、明らかにすることを意味します。天使たちは、主イエスのご降誕の喜びを羊飼いたちに知らしめ、明らかにしました。 同じように、星は東方から来た異邦人の学者たちを導き、同じ主イエスを彼らに明らかにしました。

 

 預言者イザヤは、「起きよ、光を放て。闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいるが、私たちを照らす光は昇り、主の栄光は私たちの上に輝き、私たちの上に現れる」(第1朗読、イザヤ60・1-2参照)と私たちに呼びかけます。主イエス・キリストのご降誕とこの素晴らしい祭日を通して、私たちが偉大な光に照らされている人々です。

 

 本日、私たちの心に届いている「主の公現」の星の光は、私たちに届くまでに二千年以上もの旅をしてきました。そして、私たちは、この光の旅が続くことになるようにしなければなりません。

 

 羊飼いたちは、主イエス、聖母マリアと聖ヨセフを見た後、馬小屋に留まったのではなく、神様を崇め、賛美しながら帰って行きました(ルカ2・16~21参照)。羊飼いたちはこの素晴らしい光景で満たされて去って行き、天使たちが彼らに良い知らせを宣べ伝えたように、彼らは自らこの良い知らせを他の人々にも伝えたのではないかと思います。

 

 わざわざ遥々東方から来た学者たちは、ひれ伏して主イエスを拝み、贈り物を献げた後、馬小屋に留まることなく、帰って行きました。彼らはヘロデのところには帰らず、別の道を通って自分たちの国へ帰って行きました(マタイ2・10~12参照)が、彼らもまた、ベツレヘムの小さな馬小屋で見聞きしたことを自分たちの国の人々に話したのではないかと、推測できるでしょう。

 

 飼い葉桶に横たわる幼子の主イエスを仰ぎ見るとき、私たちもそこに留まることはできません。羊飼いたちや東方の学者たちのように、私たちも、主イエスの光を持ち、そこを去って行くように呼びかけられています。私たちは、ただ主の偉大なる光を称賛するだけでなく、主の光の民となるように求められているのです。

 

 「あなたがたは世の光であり、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と主イエスが言われます(マタイ5・14~16参照)。「主の公現」の光は賜物として私たちに与えられていますが、私たちはそれを自分自身のために保持することはできません。私たちは、日常生活とお互いの接し方を通じて、私たちの家庭や家族、社会、教区の共同体、そしてより広い範囲の世界を、すべての人々、とりわけ貧しい人々や社会から疎外された人々にとって、より良く、より明るい場所にするよう求められています。

 

 主イエス·キリストの光が、今日もいつも、私たちを通して、すべての家庭、家族、教会の共同体を照らしてくださいますように。

 

わかちあい【特別連載】