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キリスト者の一番大事な日「復活祭」

主任司祭 加藤 豊 神父

 

 皆さん、主のご復活おめでとうございます。

 

 おそらくこういうと、「何がおめでたいのか?」と思われる方々もおられるかもしれません。これをご覧になっておられる人が皆キリスト信者ばかりとは限りませんから「いったい何の挨拶だろう?」という反応もあって然るべきでしょう。

 

 わたしたち教会人はいつのまにか教会内の習慣に慣れ、いつのまにか「身内の論理」で何もかもが立ち行くと錯覚してしまい、「宣教、宣教」と叫びつつ、実際には「宣教の障害となるような振る舞い」をしかねないのです。「慣れ」とはそれくらい恐ろしい。評価基準を自からのなかにしか置かない団体が、社会性を失うカルト化への道を辿ってしまいかねないわけです。

 

 ところで、この「ご復活おめでとうございます」という挨拶は、「メリークリスマス」にかき消されるくらいとなっています。社会性は大切だが、社会はいつも正しいとは限らないことを思えば、教会は非常識であっては不味いとはいえ、世の価値観へと迎合する姿勢はもっと不味いでしょう。まことにバランスが大切です。そのようななか、キリスト者でありながら、クリスマスが一番大事な祭日だと思い込んでいる人や、復活祭の大切さを知ってはいても、クリスマスのほうが好きだから、降誕祭のときだけミサに参加する、という「形だけ信者」は何と多いことか。

 

 それをしも「多様化」という言葉で括るのはある意味でもう末期症状でありましょう。わたしは原理主義者でも厳格派でもありません。むしろリベラルに分類されてしまうかもしれません。何と言われても構わないが、しかし、リベラルだとしても「キリスト者」であります。

 

 「ご復活おめでとうございます」の挨拶では通じない信仰とは?と、やはり疑問は感じます。また、わたしにとってクリスマスというのは、むしろ「未信者」の方々が教会を訪れるいい機会なのであって、信者でありながら、降誕祭を「季節の風物詩的に捉えている信仰」も疑問です。つまり、こんにちほど信仰が問われる現実が、身近に迫ってきたことは、これまでなかったと思いますし、それは「コロナ」がもたらした状況によるところが大きいと思っています。

 

 「教会とわたし」という個人的経験の中には、頭がさがるものが多いのですが、今やもっと核心を突くようなテーマである「イエスとわたしたち」という設定で、その人の信仰を語る必要が生じていると思います。本来、教会の実態は「わたしたち」ですが、けっこう皆が皆(信者であっても)、土地建物や集団的(ドングリの背比べの的)場の関わりを「教会」と呼んでいる人がいますよね。今も昔も。

 

 ところで、コロナの打撃を受けた日本経済は、感染リスクにも増して景気を向上させねばなりませんが、非営利的団体である教会が、コロナ前に早く戻りたいと焦るに任せ、様々な活動を再開させた場合、景気の向上に類する要素と無関係に、そうなるわけで、これはリスクばかりが増える、などということは、誰にでもわかる理屈です。

 

 それにも関わらず「楽しみたい」「やりがいを感じたい」という自己目的から「そろそろ教会活動を再開したいのですが」といわれても、「なぜ、そう思うのですか?教会活動の本来の目的は何ですか?」と問い返すことになってしまい、現実はかなりのアイデンティティークライシスです。

 

 わたし個人は(神父だからでしょうか)ミサが再開されただけでも喜ばしい限りですが「みんなけっこう欲張りだなあ」なんて思ってしまうのでした。この状況は、こうしたページを通して、未信者の方にも知ってもらったほうがいいことだと思うのです。評価基準を信者の各自が自分に基づいているというだけなら、独善になってしまいますからね。

 

 そして、何もなかった頃のこと(現状は九州地区以外、明治以降です)を、すぐに忘れてしまうのが人間の罪深さだとしたら、そのわたしのために主は復活されたのですから、やはり「おめでとうございます」という挨拶は(教会内常識として教会内では)キリスト者同士のこの上ない、礼節であろうと思うのですが。