· 

「入信」「入会」「宗旨替え」

加藤 豊 神父

 

 浄土宗だった人が、座禅を初めてから数年、曹洞宗に改宗しようとしました。しかし、結局「宗旨替え」は叶わず、今でも、浄土宗の檀家のままでいます。

 

 また、真言宗の人が、上野の摩利支天にお参りし、その折、窓口のご住職に、改宗を相談したことがありました。上野の摩利支天は、日蓮宗です。従って、その人は、日蓮宗に改宗しようと思ったのだと思います。

 

 しかし、窓口でその旨を僧侶に伝えると、「何か、ご自分のお家の宗派に、ご不満があるのでしょうか?」と問い返されたのでした。つまり、伝統宗教の特徴は、こう言ってよければ「非カルト」です。人は時折、強い宗教心や信仰情緒が心に涌き出で、様々な宗門を訪れますが、実家が何宗だろうと、別に構わないわけです。

 

 少々厳しいところではキチンと「いいとこ取りはやめなさい。先ずはご自分の足元を見てみなさい」と教えるのでしょう(キリスト教もこうした枠組みに収まるのではないかと思います。何しろ、幼児洗礼であれば生まれた時から自分の足元に信仰がそもそもあるわけですから)。


    しかし、新興宗教や新宗教は「入信」というものに盛大な意味を含ませますし、カルトであれば、まるで、「あなたは今までとは違う自分になりました」というくらいの教えを説くと思いますから、そこを強調し、変身願望がある人や、「藁にもすがるような気持ちの追い詰められた心境に陥った人」をさらっていってしまうわけです。

 

 わたしたちキリスト者は、正統キリスト教会である限り「非カルト」なはずです。そしてこの日本という仏教文化圏の領域ともいえる地域においては、実は、お寺さんは決して敵なのではありません。むしろ、もっと伝統宗教が頑張ってくれないと、わたしたちにとっても困るのです。

 

 東南アジアを観てください。ミャンマー、ベトナム、タイ、それらの国は元々は仏教がしっかり機能していたからこそ、それがカトリック教会の宣教に結果的に寄与しました。子沢山の家は、男の子を小さな頃から出家させ、僧院で面倒を見てもらうことで、家計も助かり、子供の教養も心配なく過ごせた経緯というのが、そのまま小神学校のシステムに受け継がれたと思いますし、祈りの心が、キリスト教伝来以前から整っていたといえるでしょう。

 

 もっと、西に目を向けるとインド(仏教国というよりヒンドゥー教ですが)はどうでしょう。バクティーヨーガの習慣は「神を愛せ」と教える掟に呼応し、ピークはフランシスコ・ザビエル、最近だとマザーテレサですね。ちなみにパキスタン(イスラムの国ですが)にも少数ながらカトリック信者がいます。「スーフィズム」と「観想」の関係性など探ってみると面白いでしょうね。

 

 何れにしても、日本での宣教を考える時、今の日本仏教が、どれほど日本社会の精神的支柱となり得ているかが、日本におけるキリスト教の受容度と、深く関わるものなのだと思います。そこでの精神的支柱に基づく価値観や対人間観こそが、現代におけるその国の精神的文化の土壌なので、目の前の社会的状況(物質的価値観が支配的な)に迎合しての「楽しい教会」なんてスローガンでは、まともな宣教論たり得ないというのが現実でありましょう。

 

 整った土壌において初めて、「入信」という言葉のの意味が、また、「入会」の意味が、はたまた、「宗旨替え」という言葉の意味が、具体的な内容を保つので、それまでは、神社にもお寺にも頑張ってもらいたい、と思ってしまうのです。