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み旨を知るために

加藤 豊 神父

 

 「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。

 

 皆さんもご存知の通り、儒学において言われたことです。その意味はもう知っておられると思いますので、それについての説明は省きますが、今まさにわたしたちを取り巻く現状がこれだと感じているのはわたしだけではないでしょう。

 

 個人的な感想をいえば、わたしは「論語」は好きですが儒教は大嫌いです。孔子様は尊敬しますが、五経は大嫌いです。しかし、そんなわたしにとって唯一の例外がこれです。これはまことに古(いにしえ)の人の知恵ですね。

 

 さて、この度、東京教区はミサ及び各教会における活動再開の方向性を提示しました。一読においても現状に鑑みた大切なポイントは随所に見られるとは思いますが、わたし自身がこれと思うものを一つ挙げるとすれば、それは「段階的かつ柔軟に」というキーワードです。

 

 沢山の人が「ここからここまで」と一目でわかる容易な答えを求めていますが、事態が容易ならざるものであるにもかかわらず、人は自分の範疇で物事を図りたい要求を持っています。故に、なかなかこの「段階的かつ柔軟に」というキーワードは馴染みが悪く、ハッキリしないものと解釈されるケースがあるようです。

 

 しかし、そのような「必ず一定の答えがある」という考え方こそいざというとき役に立たないものはないでしょう。文章でハッキリさせることがそのまま現状認識に対応しているとは言い難く、むしろ現状認識が妥当だからこそ、ハッキリできないことをハッキリいえないのです。実にハッキリしています。

 

 いうまでもなく人類の知性には限界があって、それを知りつつマニュアル化社会の合理性に頼りきってしまった現代社会は益々この傾向を強めてさえいます。しかもその種の思考パターンに浸りきってしまった結果、かえって社会の変動に慌てたり、イライラを募らせたりという心理状態が続いてしまっています。

 

 もちろん無関心でいるよりはそのほうがいいのかもしれませんが、同時に人は自らの世界観のほとんどがもともと仮説に基づく不安定な基盤の上に建てられたものであり、実際には一人一人がそのような現実を生きていかざるを得ないものであることをもう一度振り返らなければなりません。「無知の知」という崇高な英知は、今やすっかり忘れ去られててしまったかのような現代人にとって、流動的に捉えるべき現実は不安定要素でしかないのでしょう。

 

 わたしたちを取り巻く環境はまさに「草は枯れ、花は散り、若者も倦み疲れ、戦士もつまずき倒れる」というイザヤの預言のように、また、仏教的にいえば「諸行無常」で、ギリシア哲学的いえば「かたちあるものはいつか壊れる」で、和風にいうなら「もののあわれ」という流動的な世界なのです。

 

 従って、「いつか」という答えに対して「それはいつ?」と再質問を重ねたり、「いまはまだ」という答えを「未来永劫まだ」かのように絶望感を抱いたり、あるいは暫定的なものを全ての結論であるかのように受け取ることに慣れているため、現実と向き合えば向き合うほど、悩みが益々、深まるのです。

 

 しかし、流動的な現実に向き合って世界観を整理し直すならば、実は何事も「段階的かつ柔軟に」ということは当てはまる。ところが人は固定的な解答しか知ろうとしなければ、結局は最終的な解答にも辿り着けなくなってしまう。信じられないのは、賢明で慎重な性格の人でさえ、時にこの罠に嵌ってしまうことなのです。現代的価値基準はそれほどまでにわたしたちの心の奥深く浸透しており、そこから信仰を理解することくらい危険なことはありません。そうなってしまうと、人の思考に神を閉じ込め、福音までがマニュアル化されてしまうことにもなるからです。

 

 新型コロナウィルスの問題に限ったことではないでしょう。大げさにいえば人生そのものについての決定的な合格ラインはどこにもありません。仮にあるとすれば、それは多分、一番ハッキリしない概念であるところの「普通」と呼ばれるものが最も妥当です。

 

 だから人はそれぞれ置かれたところで人事を尽くすことが最善で(それさえもよくわからないことなのです)、そしてそこから先は、天命を待つこと、なのであろうと思う今日この頃です。